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「冗談はオブラートに包んだ悪意」とか、そーゆー表現ができる人でないと被害者面する資格はないと思う [ニュース読んでみて]

2018年7月11日のwithnews、「冗談は『オブラートに包んだ悪意』です 小3の出来事を描いて話題に」という記事です。

 

内容を無理にまとめるとこんな感じ。

 

・作者の小学校時代の体験を描いた漫画が話題に

・クラスの男子にひどいことを言われ、「冗談のつもりだった」と謝る彼に対して、教師が「世の中には冗談が通じない人もいるんだから」と言ったことに驚いた、という内容

・「冗談はオブラートに包んだ悪意」という言葉が印象的、他人をいじるタイプの冗談は悪意でしかない

・反響は多いが、ほとんどが賛成意見だという


 

ふーん。


 

あの、別に、このマンガの作者をたたきたい気持ちは全くないです。

 

ひどいことを言ったという男子がどの程度のことを言っていたのかもわからないし、

担任の先生のセリフは俺もなんとなく違和感を感じるし、

まぁ、これに共感する人が多いのはわかる。


 

ただ、冗談はオブラートに包んだ悪意、という言葉には違和感を感じます。

 

完全に否定したいわけじゃないですよ、違和感を感じる。

 

別にこの記事に限ったことじゃないのですが、

「相手のことを思いやろう、アナタにとってはほんの些細なことでも、傷つく人もいるんだよ」系の記事といいますか、その辺の記事全般に感じる、俺の違和感なんですけど。


 

あの、世の中に悪意のあるいじりがあることは知ってます。

 

俺なんかはどちらかというとひたすらいじられる人生を送ってきましたので、

俺のこと好きでいじってきている、ちょっかいだしてきているのか、悪意のある、俺をバカにしているいじりなのか、

その辺のことはすぐにわかります。何の自慢なんだ(笑)

 

それをされて傷つく人がいるのは分かる。

特に、バカがテレビの毒舌芸人とかを見て、マネしてつまんねーいじりとかをしてるのを見るとホントに反吐が出る。

毒舌と下ネタはワンランクもツーランクも上のセンスがいるんだよ!!

バカが見よう見まねでできるようなもんじゃねーんだ、バカ!!!


 

・・・取り乱しまして。


 

何を言いたいかといいますと、

冗談が悪意というのはよく分かる、実際そうとしか言いようのない冗談もある。

 

ただそれで、あぁ、悪意をぶつけられちゃったなぁ、といちいち傷つくのって、

なんつーか、生きにくくない?と、思うんですよね。


 

悪いのはもちろん悪意をぶつけてくるバカです。

 

なんでそんなバカのためにこっちが変わらなきゃいけないのか、という気持ちになるのもよくわかる。

 

ただ、悪意をぶつけられて、ぶつけられたなぁ、もやもやするなぁ、生きにくいなぁ、なんて傷つくのは、あまりにも非生産的で。

てゆーか、バカに傷つけられるなんて単純にムカつくじゃないですか(笑)

 

バカがいない世界がそりゃ理想だけど、

どうしたってバカは一定数世の中にいるわけだから、

で、あれば、悪意をぶつけられた時のしたたかさ、しなやかさ、気にしないためのする―スキル、みたいのを身に着ける方が、よっぽど生産的じゃないかな、と思うわけです。

 

もちろん人によって悪意に対するそもそも持ってる耐性であったりとか、耐性をどれくらい高める必要があるか、という個人差があるとは思うものの、

 

悪意に対する耐性が高いなら、高いにこしたことなくない?

と、思うわけです。

 

かつ、耐性と冗談のセンスを磨いて、冗談を遠慮なく言い合える関係がたくさん作れるに越したことはないんでない?なんてなことも思います。

 

だからその、そもそも持って生まれた運動神経のこととかもあるし、仕事で筋肉を使うかどうかみたいな問題もあるけど、

まぁ、運動できるにこしたことはなくない?みたいなことで。

 

「運動できるから偉い」とは思わないものの、運動できる方が健康にもいいし、まぁ、できないよりはできる方がいいんでない?みたいな。そんなかんじ。


 

で。


 

この記事のマンガ描いたマンガ家さんに特に文句はございません。

で、共感を呼んでるのもいいし、こーゆーことってあるよね、と思ってる人にも文句はない。

 

ただ、あんまりこーゆー記事が広がるのもいいことばかりではないと思っていて。


 

なぜかというと、さっき書いた「毒舌芸人のマネをしてクソつまんないいじりをする」、みたいなヤツがこのテの記事でもいると思っているんですね。


 

つまり、この記事のマンガ家さんは、「冗談はオブラートに包んだ悪意」ということを表現にまで高めているので、いい。

いい、とか俺が言うのも変ですけど、他に表現が思い浮かばないので(笑)


 

ただ、表現にまで高めるだけのセンスのない、

「冗談って悪意だよね~」なんて、表面だけペロッと舐めたようなことを言うヤツが、

したり顔で被害者面をする、みたいなことになると、これはいかがなものかと。

 

今被害者面すれば結構なんでも許されるというか、ムチャクチャ文句言ってもいい、みたいな風潮になってるかんじがしますけど、

被害者面するのって一番非生産的だし、しょうもない。


 

漫画にしたり、表現、エンターテイメントに昇華できる人はいいんですけど、

大概の人はそこまでできず、ただただ被害者面をする、みたいな非生産的なことをし、仲良くなるために冗談を言う、みたいな人に対してもなんか、嫌な態度をとったり、なんてなことをしたりするんじゃないかと。


 

あの、「冗談は悪意をオブラートで包んだもの」を雑に扱っている人は、「毒舌芸人のマネでクソみてぇないじりをするヤツ」

と、表現は違うけどベクトル的には同じようなことをしている、と自覚した方がいいのではないか、なんてなことを思います。

 

「相手のことを思いやろう、アナタにとってはほんの些細なことでも、傷つく人もいるんだよ」系の記事って、だから全体的に違和感を感じるんですよね、俺。

 

もちろんその、たまにこういう漫画にする人とかが出てきて、共感を呼ぶ、という現象は別に構わないんですけど、

なんか最近やたらにこのテの記事が増えてるような気がして、生きにくいなぁ、こんな意地悪言われて傷ついた、〇〇ハラスメントだ!みたいなこと言って被害者面するやつが増えていくことって、決していいことではないと思うなぁ。

 

スルースキルとか、心の強さを鍛える、みたいな記事がもうちょっと増えてもいい気がするんですけど。どうですかね?


 

元記事を否定したい気持ちは別にないし、


 

このテの記事が共感を呼ぶのもまぁよくわかる。


 

とはいえ基本的には被害者のグチってとんでもなく非生産的なものであり、


 

表現にまで高められる人ならともかく、雑にマネする人が増えるのはあんまりよくないと思うなぁ。


 

雑にマネするのは「毒舌芸人のマネをしてつまんねーいじりするバカ」と同じようなことをしてる、と思った方がいいのではないかと。


 

いや、「毒舌芸人のマネをしてつまんねーいじりをするバカ」は最近叩かれやすいけれども、


 

冗談を言われる側という被害者側だからって、何やったって許されると思うなよ、とは思う。


 

と、思った、という話です。


 

はーぁ、寝よ。


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誰かを守れない男には価値が無い、って、言おうよ、ちゃんと。 [ニュース読んでみて]

2018年6月18日の東洋経済オンライン、「稼ぎが少ない夫が家事を放棄する『深い理由』」という記事です。

 

内容を無理にまとめるとこんな感じ。

 

・お悩み相談コーナーで、夫より稼ぎの多い妻からの相談、夫が家事をせず、しかも家事に注文をつけてくる

・性別分業が常識ではなくなっている現代で、なぜ夫がこのような行動をとるのか?それには実は理由が

・稼ぎによって男らしさ、権威を示せない男性が、「妻の家事を批判し、完全な家事をさせること」で男らしさを補てんしようとする場合がある

・「健全なプライド」を確立するため、夫婦でよく話し合い、お互いを尊敬できるようにすることが、解決への道。


 

あっはっはっはっはっは。


 

いや、あの、夫の行動を肯定するわけではないですけど、まぁ、気持ちはなんとなくわかるな~、って気はする。

 

俺自身はプライドって概念が薄い方なので、まぁ同じ状況になっても家事を批判したりするようなことはないと思いますが、男の見栄の部分、みたいのはなんとなくわかる。


 

この記事で重要なのは、男のプライドの作り方、というところだと思ってます。


 

急に話変えますが、俺の中の基本的な考え方として、男は女に絶対かなわないもんだ、と思っております。

 

元記事のコメント欄を見ると、

なんで夫のプライドを妻が育ててやらなきゃならんのだとか、誰かに認められなきゃプライドも持てんのか子どもか!とか、

そんな辛辣なコメントが並んでおりますが、

 

俺の見立てでは、これ書いてるの全員女ね(笑)

 

そこなんだよな~~!!!

 

俺が女の方が男より強いと思うのはそこで。

 

女は誰に認められなくても、自己を確立できるんだと思うんです。

 

でも男は誰かに、あるいは社会的に認められないと自己を確立できないんですよ。

この辺の深刻さが女には伝わらないんだろうな、ということが、この記事のコメント欄とかを読んで思うわけです。

その辺が女に伝わらないことには、この問題は解決しないだろうな、なんてなことをおもうんですけど。

 

男はね、弱いんです。

誰かに認めてもらわないと、自分というものを持てないんです。

多分、その感覚は女の中にはないので想像もつかないんだと思うんですけど。

男ってのはそういう生き物なんです、アナタ方よりか弱い生き物なんです、女性の皆さん。


 

で。


 

勘違いしてほしくないのは、俺は男はそういう生き物だと思っているが、この記事の夫を擁護したいわけではない、ということ。

 

この夫はクズですよ。

 

自分の稼ぎが少ないのを棚に上げ、

 

家事もせず、

 

あまつさえ妻の家事に文句をつけ、

 

自分のプライドを保とうとする。

 

そんな男を俺が擁護するわけないじゃないですか。

 

この夫の罪は、まず妻を守れるほどの収入が無いこと。

収入が無いにも関わらず、妻を守るどころか自分のプライドを守ることに汲々としていることです。

 

こんな事言うと、俺自身はさぞご立派な男なのだろうと思われるかもしれませんが、

俺は今まさにクズとしての人生を邁進しております(笑)つまり、稼ぎが少なく、誰かを守れるような収入が無い、という意味で。

 

とは言え、俺の方がまだこの夫よりもマシだと思うのは、

結婚もしてないので妻の家事をなじるようなことが無いこと、

かつ一応自分がクズであるという自覚があり、それを受け入れている、ということです。


 

あのね、突然話を変えるようですが、俺世間はもうちょっと、稼げない男に価値はなし、って言った方がいいと思ってんですよ。


 

記事のコメントには、男が稼ぐべき、なんてマッチョイズムがこういう夫を生み出すんだ、なんてことを書いてありましたが、これもコメントしてるのは女か、もしくは稼いでる男だと思ってます、俺は。

 

稼げない、という言い方が問題なのであれば、女であったり、家族であったり、会社の人でもいいけど、そういった近しい人を「守れない」男に価値は無し、でもいいです。

守る、ということであれば、稼ぐ以外にもいろいろ方法はあるからね。

 

あの、マッチョイズムがよくない、というのはよくわかるんですけどね。

ただ、仮に男が稼ぐべし、という価値観がこの世から完全になくなったとして、

そうはいっても男が誰かに認められないと自己を確立できない生き物だとすれば、

稼ぐ、以外の価値観でなんかしらプライドを確立しなければいけないと思うんで、

それであれば、稼げない男は価値無し、と言っちゃったほうがいい気がするんです。


 

あの、稼げない男に価値はない、ってのは、女を守るために言ってるんじゃないんですよ。

男が自己を確立するために言ってるんです。

稼げるようになれば、結果女を守れるようになったり、女から認められる可能性は上がりますが、それは一つの結果に過ぎないんです。

と、思うなぁ。


 

あのねぇ、三十路超えてクズとしての人生歩んでるセカンド童貞から言わせていただきますけどね。

 

価値観の多様化とか、自分らしい人生とか、そんな価値観クソっくらえと思ってます!

 

別に稼げない男はクズだぞ、と言ってくれなかったから俺は今クズなんだ、なんて言うのは言い訳だ、ってことはよく分かっております。

 

ただねぇ、結局自分らしく生きろなんて言われてね、まぁあんまりガリガリ勉強したわけでもなく、何かを特に頑張ったでもなく、

なんとなく生きてきてしまったら、今なにも確立してないぼんくら三十路クズ男が出来上がってるわけです。

 

じゃぁ親なり世間なりから、稼げない男はクズだぞ、稼げるようになれよ、と言われていたら俺は今立派な人間だったか、なんてそんなことは分かりませんよ。

 

ただ、今、自分として思うのは、結局のところ、稼げてない男・・・まぁ、男に限らないかもしれないですけど・・・なんつーのは、結局世間からはじかれるんじゃんか、と。

 

その状況というのは、誰かに認められないと自己を確立できない弱々しい男からすると、ゲロ吐くほどキツいんです。

 

だから、元記事の夫が、妻の家事を批判する、そうして自分のプライドを保つ、みたいなこと、行動を擁護するわけではないですが、プライドが保てなくてきつい感じはなんとなくわかる、ということなんですよね。

 

結構こんな状態の男っているんじゃないかな~、って気は、します。

 

まぁ、何事も例外ってのはいるもんで、別に誰かを守るとかじゃなく、自分らしさを突き詰めて、その結果大きな業績を残して世間から認められる、みたいな人はいます。

つまりすごい才能の持ち主であるところの、スポーツ選手とか、芸能人とか、年商何億の社長とかですけど。

とは言え、そんな人男全体の何%よ?って話じゃないですか。

 

そりゃ、女だってそっちの男が好きでしょうよ。

ただ、俺を含めたほとんどの男は、そんな才能もないし、自分らしく生きたところで誰かを守れるほど力を持てるってことはないし、認められるわけでもない。

 

で、あればさ、せめて稼げない男は価値無し、という真理について先に言っといてくれよ、なんてなことを思ったりもするんですよね。


 

自分のプライドを守るために妻を攻撃するようなバカ夫を擁護する気はサラサラないが、


 

男は単体でプライドを確立できない弱い生き物であることは事実。


 

その辺生き物として強い女には理解できないとは思うものの、


 

男は弱い生き物であるという前提が共有できないことには、元記事の相談者が抱えてるような問題って解決されないんじゃなかろうか。


 

っていうか、男が単体でプライドを確立できないのであれば、


 

ちゃんと「稼げない男はクズ」「誰かを守れない男はダメ」とか、ちゃんと言っといてあげた方がいいんじゃない?


 

言われねーからフラフラ生きて、元記事の相談者の夫みたく、


 

自己を確立できずにグズグズしてる男って今たくさんいるような気がするんだけど。


 

てか、俺もその一人ですけどね!!!


 

と、思った、という話です。


 

なっが!くすぶってる自分のことについて書いたら思いが溢れすぎて、今回の記事、なっっっっが!!!


 

はーぁ、寝よ。

 

 

これで、悪い男がよってこないようにと付きまとったり郵便物をチェックするようになったら完全にストーカー。


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いじめだパワハラだって、構造から否定することを言うと、教育そのものの否定にならないかい?という。 [ニュース読んでみて]

2018年5月18日、現代ビジネスの「日本の学校から『いじめ自殺』がなくならない根本理由」という記事です。

 

内容を無理にまとめるとこんな感じ。

 

・福井県の中学校で、教員のいじめが原因となる生徒の自殺事件が起きた

・学校や軍隊といった閉鎖的な空間で、上官等からいじめられて自殺するケースはよくある

・世間では残酷、理不尽、非常識とされることでも、閉鎖的な空間の中ではあたりまえとされてしまうことがあるため

・日本の学校の全体主義への染まり方は、連合赤軍が「ブルジョワ的」障害と言い、オウム真理教が「地獄に落ちる」障害と言っていたのと、どこが違うのだろうか


 

うーん。


 

あの、なんだろ、俺が思ったことなんですけどね。

 

何、この人は、教育ということそのものを否定したいの?ということで。それはその、学校というシステムに限らず、なんですけど。

 

もちろん福井県で起こった自殺事件の加害者である教師をかばいたいとか、そういうことじゃないですよ。

 

学校というシステムの問題点をいろいろ指摘していて、その中では確かになるほど、と思えることはたくさんある。

 

ただ、問題点があるからとまるっきり否定しちゃって、連合赤軍やらオウム真理教なんかとならべるだけってのは、それは教育そのものの否定になりませんか?という。


 

要するに、ここでこの筆者が指摘しているのは、教育そのものが陥りやすい問題点だと思うんですよ。


 

軍隊も、学校も、まぁ、言ってしまえば連合赤軍だのオウム真理教も、

「その組織が持つ、ある特定の目的に沿った人間を作ろうとしている」

という意味では共通している。

 

軍隊は兵士を作ろうとしているし、

学校は「勉強のできる人」「一般常識のある人(まぁ、実際その目的が達成されているかはともかくとして)」を作ろうとしている。

 

連合赤軍もオウム真理教も、自分たちの組織にとって都合のいい人を作ろうとしている、のでしょう。


 

その意味では、横並びにされるのもある部分では仕方がない。

 

その、各組織が理想とする人間像、及びその育成方法が世間に広く受け入れられるかどうかの違いはあるものの、

「その組織が持つ、ある特定の目的に沿った人間を作ろうとしている」

のは共通しているわけで。

 

それは、とても人気のある進学校とかでも一緒でしょ。

 

つまり、進学校の目的は例えば、

 

「とても勉強ができ、いい会社に入ったり役人になったりして、エリート街道を驀進できる人間を作る」

 

という目的であって、

 

その目的が「自分の子どもをそうしたい」とか、「俺はぜひエリート街道を驀進したい」とか思ったりした人たちに広く支持されて、しかもそこの卒業生が社会に貢献したりして、世間の評価も得ているのが進学校なわけですが、

 

じゃぁそういう人間を育成するために夜遅くまで補習授業をしたりとか、毎日どっさり宿題を出したりとか、そういう世間一般の感覚からするととんでもないことをしてるのも進学校でしょ。


 

もっとわかりやすいところで言えば、軍隊とか自衛隊は自国を守る兵士をつくるための教育をするわけですが、

 

そのために銃とか兵器の使い方を学んだりとか、体力づくりのために過酷なトレーニングを積んだりするわけですよね。

 

でも世間一般の親の感覚からしたら銃の使い方を教える!?過酷なトレーニングを受けさせられる!?そんなのとんでもない!って話で。

 

じゃぁ軍隊での教育が間違ってるかってーとそんなことはないわけでしょうに。


 

教育ってもともとそういうことを含むというか、多かれ少なかれいじめとか、パワハラ、セクハラ、しごきみたいな側面を含むものでしょう、と思うわけ。

だって、何かの価値観に基づいて、その価値観に合った人間を作りだそうってのが教育なんだからさ。

 

1+1=3て書いたら、テストでバツにされた、これは一方的な教師の価値観の押しつけだ!とかさ、言おうと思ったらどうとでもなるじゃんか。

でもそこで1+1=2だって教えるのが教育なわけで。それをパワハラだとかって言われちゃったら教育なんて成り立たないじゃんか。


 

もちろん、今回の福井県の中学生自殺事件の原因となった教師を弁護する気なんかありませんし、

世のいじめ、しごき、パワハラ、セクハラみたいな事件が全部教育上のことだからしょうがない、なんていうつもりはありませんよ。

 

いじめなんか、なくなるならこの世から無くなった方がいいに決まってる。


 

ただ、話をするなら学校というのはこういう構造で、こういう部分でいじめが発生しやすい構造であり、だからこういうことに気を付けなければならない、とかって話にしないといけないんじゃないかな、と思うんです。


 

日本の学校はこういう構造だからダメだ、っていう話で終わっちゃうと、教育そのものの否定、になりかねないのではないかと思う、わけです。


 

で、ね。


 

結構世の中のパワハラ騒ぎとか、セクハラ騒ぎに感じる違和感てその辺から来るんじゃないかな、なんてことを思ったりもするんです。

 

なんべんも言いますけども、いじめ、パワハラ、セクハラ、全部なくなるならそれはそれにこしたことはない。

 

ただ、教育そのものがもともとそういう側面を持っているんじゃないかと思うんですよ。

 

スポーツとかの話で言えば、例えばオリンピックに出るための過酷なトレーニングと、いじめ、パワハラの境目って何?と思うわけ。

 

世間一般から見たら、そんな常軌を逸したトレーニング、いじめ以外の何物でもない!と思うかもしれないけど、オリンピックで勝つためには本当に才能のある人がそれくらいトレーニングしないと勝てないんだ!って言われたら、うーんってなるしかない場面もあるでしょう。

 

でも構造的に、その過酷なトレーニングが理不尽なしごきであったり、パワハラになってしまいやすい、という面もある。

じゃ、しごきやパワハラにならないためにはどうしたらいいの?という話をすべきなのに、

 

なんとか協会の閉鎖的な体質がどうとかこうとか、それはちょっと違うんでないかなぁ、と。

 

いや、スポーツの協会なんて閉鎖的に決まってるじゃん、いちいち世間の声に耳を傾けて、暴力的だなんだとか言われないようにして、結果トレーニングがぬるくなってオリンピックで勝てなくなったらそれはそれで叩くんだろ?なんてなことを思うわけです。


 

閉鎖的で、いじめが発生しやすい、その構造が学校の問題点だというのはよく分かる。


 

ただ、その構造の中で、どうしたらいじめが発生しにくくなるのか、という話になるならともかく、


 

その構造自体を否定するというのは、ちょっとどうなのかと思う。


 

学校に限らず、教育を目的とする機関は全て閉鎖的になるに決まっているのであって、


 

時には一般的な感覚からしたらいじめといえるくらいのことを行うことで、大きな業績を残すようなこともたくさんある。


 

一般の感覚を取り入れるというのは聞こえはいいけども、


 

それって結局教育そのものの否定であって、


 

だからこの記事に限らず、パワハラとかのニュースを見たときに、なんとなく違和感を感じるのかなぁ、と。


 

もちろん、いじめだのパワハラだのはなくなった方がいいに決まってますけどね。


 

と、思った、という話です。


 

はーぁ、寝よ。

 

①、②、③、どこからがいじめ、パワハラだと思いますか?

 

いろんな意見があるとは思いますが、受ける側の性癖にもよるというか・・・

 

・・・いや、管理人の性癖とは関係ないですよ!?


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どっちがより野蛮か、なんて議論には意味がないけど、まぁ、銃の方が野蛮じゃない?という。 [ニュース読んでみて]

2018年4月15日、withnewsの「17人死亡の現場にいた日本人…学校でもタブー、『銃規制』に声をあげた少女『今回は変わる予感がする』」という記事です。

 

内容を無理にまとめるとこんな感じ。

 

・フロリダの学校で銃乱射により17人が死亡した事件に巻き込まれたエンゲルバード美愛さん。

・自身もかつてない恐怖を感じ、昨日まで一緒だった友人が亡くなったりもした。

・美愛さんはワシントンでの銃規制を求める集会にも参加。

・銃規制に向かう動きはかつてないほど大きくなっており、美愛さん自身も今後活動を続けたり、投票可能な年齢になれば投票をして意志を示すことが重要と考えている。


 

へー。


 

あの、今回は短めにまとめます。

 

その、俺自身は日本から出たことがありませんので、

 

銃乱射事件に巻き込まれるとか、

そこまで行かなくとも、隣の家の人が普通に銃を持ってるとか、

自分ちにも普通に銃があるとか、

 

そーゆー状況で暮らしている人の感覚というのはまぁ、分かりません。


 

俺がこの記事を見て思ったのはたった一つで。

 

そこいらを歩いてる人が普通に半自動小銃を買えて、

高校とかの中で何十人も死ぬような事件が起こり、

それでもなお銃規制への動きが強まった、程度の動きしか起こらない国が、

 

よくぞまぁ、よその国の文化に対して野蛮だなんだと言えたもんだなぁ、っていう。


 

例えば食文化だったり、宗教的なものだったり、男女各差みたいなものだったり。


 

まぁ、アメリカの方がより野蛮だからこれらの問題は考えなくていいよね、ということではないし、

対立の軸がズレていて、並べて論じるのが間違っているのも分かっています。


 

ただ、

みんなから人気のある動物を食べたりだとか、

宗教的な価値観が現代の世界的な価値観と合ってないとか、

旧来の価値観に捕らわれて女性の権利が認められてないとか、


 

そんなことよりよっっっっっっっぽど、


 

一般人が半自動小銃を買えたりとか、

一般人の家庭に銃があったりとか、

銃を使って一般人が人を殺したり殺されたり(する可能性がある)とか、

あまつさえ突然学校に頭おかしいヤツが乱入して銃が乱射されて何十人も死んだりとか、


 

っていう方が野蛮だよね、っていう。


 

銃社会というのはアメリカの文化だ、なんつったって、

 

それを言ったら、

人気の動物を食べることだって、特定の宗教を信じることだって、男女の各差が発生する社会システムだって、

それぞれが、それぞれ積み上げてきた、文化だからね。

 

で、それぞれ文化と認めたうえで、どれがより野蛮か、と言えば、これはもう銃社会でしょう。

 

そんな国が、よそに何だかんだ言ったところで、そりゃぁ説得力ないよなぁ。

 

と、思った、という話です。


 

はーぁ、寝よ。


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自分がモテないから恋愛結婚を憎むわけじゃないですよ、えぇ。違うってば! [ニュース読んでみて]

2018年3月11日、現代ビジネスの

「『西郷どん』に見る『恋愛結婚至上主義』による歴史の書き換え問題NHKドラマに頻発する奇妙な大前提」

という記事です。

 

内容を無理にまとめるとこんな感じ。

 

・大河ドラマ「西郷どん」の展開、フィクションなので細かいことはいいが、「好きになった人と一緒になることこそ、幸せな結婚だ」という価値観が根底に流れている。

・「恋愛結婚が素晴らしい」という価値観はここ数十年のものであり、西郷どんの舞台となっている幕末の人物がそういった価値観を持っているのは奇妙

・西郷どんに限らず、NHKのドラマは「恋愛結婚が素晴らしい」という価値観が入っており、最近だと「わろてんか」もそう

・「恋愛結婚はいい結婚だ」と信じている世代の現在の「おばさん」が、現代の下の世代がその価値観を受け継がないのではないか、と危機感をいだいてるからことさらに主張するので、NHKの歴史物がこうなるのではないか。


 

ふーむ。


 

なんつーか、おばさんの断末魔というか、

 

ある世代の、

 

バイタリティにだけはあふれていた、

 

現在老害といわれる、

 

そんな世代のあがきといいますか。

 

なんか、そんな印象(笑)

 

NHKも、そんな世代ばっか相手にしてると衰退するぞというか、でも結局今テレビ見てるのってジジババばっかりなんだろうなぁ、という象徴的な話なんじゃないか、と思いますね・・・


 

俺としては、恋愛結婚に関してとんでもなくいいものだとは思いません。その点、この筆者と全く同意見。


 

別に否定するわけじゃないけど、それが最上と言われるとそんなことなくね、というか。

 

つか、恋愛結婚てホントある時代の徒花でしかないと思うんですよ。

そんな良いもんなわけねーじゃねーの、恋愛結婚なんぞ。


 

というか、恋愛結婚至上主義者のせいで、今の少子高齢化が進んでるのではないか、とすら思ってますけどね、俺は。


 

恋愛結婚至上主義って、結局のところただの反発でしかないと思うんですよ。

 

西郷どんの中で出てくるような政略結婚みたいなことだったり、

まぁ、政略結婚なんぞ上流階級の間でしかなかったろうけど、

親が決めた相手と結婚するとか、世話焼きおばさんがお見合いの話持ってきてそのまま結婚するとか、

 

そういうことが、いい悪いは別にして、普通だった時代に、

 

いや、そうじゃない、恋愛して、好きあった人と結婚するのが素晴らしいんだ、

 

っていうのが恋愛結婚至上主義だと思うんですよ。


 

で、別にその価値観はその価値観でいいんですけど、

 

反対側に「好きではない相手と結婚する」という価値観が無いと成立しない・・・しないは言いすぎとしても、まぁ成立しにくい・・・価値観だと思うんですよね。反発だから。


 

現代では親が決めた、とか、お見合いで、とか、好きでもない相手と結婚する、ということはあんまり無い状態ではありますけど、

 

その結果、結婚の動機がほぼ恋愛だけになっちゃって、

 

じゃぁ、結婚する、一生を誓う、みたいなことの強い動機になるほどの大恋愛をしてる人がどんくらいいるわけ?

 

恋愛結婚を至上とする価値観が、結婚に対する動機を薄れさせ、現在の晩婚化、少子高齢化となった、その原因の一端なのではないか?と、思うんですけど。


 

分かりやすいところで言えばロミオとジュリエットの話なんかは大恋愛の話ですけど、

 

アレも両家の反対という舞台装置があったから物語としてものすごく盛り上がるわけで、

 

アレが両家が仲良くて、

 

別に反対も何にもなく、

 

逆に若い二人のタイミングで結婚すればいいよ、なんて、

結婚しろ!という家からのプレッシャーすらもなく、

 

そんな状況だとしたら、

 

最初は仲が良かったロミオとジュリエットがなんだか結婚するタイミングも失って、ダラダラ10年とか20年とか付き合って、なんとなく別れる、みたいな物語になるんじゃなかろうか(笑)


 

そら今のオバサン達はね、ある年齢になったらお見合いさせられて結婚させられたりとか、

それで好きでもない人と一緒になって苦労したとか、

 

そーゆー「恋愛結婚の反対」の経験をしたのかも知れないけど、

 

でもそれって、まぁ言い方はあれですけど、

 

若い人を結婚させて、家庭を作らせて、社会を維持するための仕組みであって、

 

それに対する単なる反発で、

 

恋愛結婚って素晴らしいって話にしちゃって、

 

少子高齢化の原因の一端を作った挙句に、

 

西郷どんの恋愛至上主義な展開を見て、

 

時代考証なぞ一顧だにせず、

 

はぁ、愛し合っている二人が一緒になれないなんて、なんて悲しいの・・・

 

とか思っているんだとしたら、

 

クッソ気持ち悪いな、なんてなことを思ったりもするわけです。

 

で、それに媚びるNHKもね。


 

なんというか、過渡期というか、恋愛結婚至上主義なんかすぐ消えるに決まってて、


 

それに今の若い人らは気付いてて、徐々に恋愛結婚至上主義も消えかけてて、


 

それなのにNHKは一生懸命恋愛結婚至上主義者に媚び売ってて、

 

そりゃぁテレビが斜陽産業と言われるのも分かるわな、


 

と、思った、という話です。


 

はーぁ、寝よ。


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その、競争って、勝利って、どうしてもしないといけないの? [ニュース読んでみて]

2017年4月21日東洋経済ON LINEの、

「ディズニーの姫で『ソフィア』が別格な理由『アナ雪』以上?伝統的な価値観からの自由」

という記事です。

去年の記事なんであれですが、俺は最近読んだのでしょうがないじゃないですか(笑)

内容を無理にまとめるとこんな感じ。

 

・この記事の筆者は、「ディズニープリンセス」とは、旧来の「王子様と幸せに暮らす」「女の幸せは男に与えられるもの」といった、伝統的価値観、恋愛至上主義に縛られていると思っていた

・しかし「アナと雪の女王」を見て考えが変わり、「ちいさなプリンセス ソフィア」に至っては近代的な価値観が描かれており素晴らしいと思っている

・ソフィアが王子の競技である「ペガサス・ダービー」に参加して勝利したり、大人が教育の参考にできるシーンがあったりと、現代的なエッセンスが多く描かれている

・そういった物語を見ている子供を見ると、子供はすでに伝統的な物語から解放されているのかもしれない、と思う


 

ふーん。


 

あの、基本的にはこのテの記事は嫌いです、俺。

 

別にソフィアを否定したいわけではないです、念のため。

 

まぁ、個人的な好みとしてはあんま好きなタイプの物語ではないですけど。それだったらプリンセスが王子様と幸せになるタイプの物語の方が好きですけどねぇ。

 

こういった物語を手放しで称賛する、旧来の価値観からの脱却、女性の時代みたいなこと言ってるタイプの人が気持ち悪い、嫌い、と言ってるんです。


 

いや、ソフィアを見ていないのであんまり強いことも言えないんですけど、ソフィアの物語って、「主人公が、いろいろな障害を乗り越えて、競争を勝ち抜き、最終的には勝利する」物語だと思うんですね。


 

で、そのこと自体は物語の基本であり、基本的にはほぼ全ての物語・・・特に子ども向けの物語は・・・がこの競争して勝利する、というフォーマットを踏襲してますので、それはいいんですが。

 

それを主人公が女性になったことで、現代的な価値観になってて素晴らしい、などとのたまうことはどうかと思うわけです。

 

主人公が男、王子であれば発生しないであろう障害が、プリンセスだと発生する。

 

つまり、記事中のペガサス・ダービーの話であれば、主人公が王子であればすんなりダービーに参加できたろうに、ソフィアが女の子だから、プリンセスのすることじゃない、と反対が起こる。

 

それはより物語がより面白くなる、っていう舞台装置の一つ、くらいに思っておかないといけないんじゃないのかな、と思うんですけど。

 

これがヘンな話、キレイなドレスを着てファッションショーに出たい、という主人公の物語であれば、主人公が王子の方が障害が多くて物語が面白くなるかもしれないですよね?



 

それなのに、「女の子だからという理由で反対されたソフィアが、王子の競技であるペガサス・ダービーに参加する」ということを見て近代的な価値観だ、と持ち上げるのが気持ち悪い。


 

ハッキリ言ってしまいますと、ソフィアの物語・・・少なくともペガサス・ダービーの話に関しては・・・が近代的な価値観で作られているとは思えません。


 

それはなぜかというと、主人公が競争して勝利する、という競争主義、資本主義的価値観の中にあると思うからです。

 

まぁソフィアがペガサス・ダービーの話が全てだとは思いませんけど、

ペガサス・ダービーの話ってつまり、

 

主人公の女の子が、

 

旧来女の世界では無かった世界に、

 

周囲の反対を押し切って飛び込み、

 

自分らしさを発揮して、

 

最終的には勝利する物語。

 

つまり、

 

やりたいことをやれ、

 

男、女は関係ない、

 

自分らしさを発揮しろ、

 

そのためには競争も厭うな、

 

かつ、最終的に勝利しなきゃクズ、

 

という物語ですよね。

 

どこが現代的、新しい価値観なの?主人公が女の子なとこ?


 

いや、別に女は競争に参加するな、と言いたいんじゃないですよ。

男であれ、女であれ、競争して勝利するのが至上、みたいな価値観が、なんだか貧しいなぁと思うだけです。

 

もちろん自分の本当にやりたいこと・・・この記事内のソフィアの場合はペガサス・ダービーをやりたかったんでしょうが・・・をするために、競争に飛び込むことを否定はしません。

 

例えばプロスポーツ選手とか、オリンピックアスリートみたいな人はものすごい競争を勝ち抜いているわけですし、その結果見せるパフォーマンスなんかについてはもちろんすごいと思う。


 

ただ、競争に飛び込んでしまうと勝者より敗者の方が圧倒的に多いわけですし。

 

競争して勝利するのが至上、という価値観の中では幸せになれる人はものすごく少ないのではないかなぁと。

 

ソフィアも結局勝利したからいい話になるのかもしれないけど、反対を押し切ってぼろ負けしてたらクソミソに言われてたろうな、なんてことを思うわけです。

 

割と競争なんかしないで、多様な生き方を認めようよ、というのが最近の価値観なんじゃないんですかね?


 

この、競争して勝つのが至上、という資本主義的価値観は変えることなく、主人公が女の子に変わっていることで、なんてスバラシイ、とか言ってることが気持ち悪い、と思うわけです、俺は。

自分が資本主義の考えに捕らわれている、とは思わないんだろうな、この筆者は。


 

まぁ、日本の子ども向け番組だってヒーローものとかは競争して(戦って)勝利する、という物語なので、それが面白いのは分かりますけど。

 

それの主人公が女の子になったことで、なんてすばらしいんだ、とか言うのはどうかと思う、という話。話として面白いかどうか、だけでいいんじゃねーの?

 

ソフィアはソフィアでいいんですけど、話が面白いのも分かりますけど、


 

主人公が女の子になったってだけで、別に価値観どうこうって意味ではとんでもなく新しいモノだとも思えない。


 

それをなんだか持ち上げてスバラシイ、現代的な価値観だとか持ち上げるよりは、


 

競争して勝利するのが至上、という価値観ではない物語、いろんな価値観の物語をたくさん見させてあげた方がいいんじゃないかなぁ。


 

例えばまんが日本昔話なんて、競争・勝利というフォーマットから外れた物語がたくさんありますよ~。


 

なんだかんだ結局競争して勝利する、という価値観から抜け出せていないから、


 

このテの記事の筆者って俺は気持ち悪いし、違和感を感じるんだなぁ。


 

と、思った、という話です。


 

はーぁ、寝よ。


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ウーマンラッシュアワーのネタよりも、綾小路きみまろのネタの方が圧倒的にハイレベルだと思う理由ww [ニュース読んでみて]

えーと、相変わらずワンテンポ遅れてブログネタにしますけれども。

 

12月18日のデイリー、「ウーマンの時事ネタ漫才に反響続々 村本『ずっと全国放送でやるのを待っていた』」という記事です。

 

内容を無理にまとめるとこんな感じ。

 

・ウーマンは原発ネタ、沖縄基地問題、震災での仮設住宅問題、北朝鮮問題などさまざまな問題があるにも関わらず、今年は不倫問題ばかりが報道されたことを皮肉る漫才を披露。

・危機を感じなければならないのは「国民の意識の低さ!」と言い放つ

・医師の森田豊氏、作家の乙武洋匡氏、脳科学者の茂木健一郎氏等の著名人も絶賛

・一方、「ウーマンのネタって笑えない」「ウーマンのネタを面白いと言っている人は、このネタを面白いって言っている自分かっこいいでしょ!意識高いでしょ!って感じが出てて…」といった批判的な意見も

 

 

えーと、リアルタイムではないんですが、遅ればせながら見ました、ウーマンラッシュアワーの漫才。

 

その結果、俺は、賛か否かと言われれば、申し訳ないですが完全に否です、俺はww

 

その理由を述べさせていただきます。

 

 

まず、面白いか面白くないかという観点では、とりあえず評価しません。

いや、俺自身の感想としては全然面白くなかったんですが、その辺は個人的な感覚も含まれますので・・・

 

 

それでもなお俺が否と思うのは、お笑いとしての構成、あるいは風刺とかと言われるネタとしてのレベルも全然高く無かったと思うからです。

 

 

えっと、ここで取り上げたいと思いますのが、引用した記事でも出ていらっしゃいます、茂木健一郎先生の、日本のお笑いはオワコン、という発言でございます。

 

一応下記にそのまま引用します。

 

海外のコメディアンと比較した上で、「日本のお笑い芸人たちは、上下関係や空気を読んだ笑いに終止し、権力者に批評の目を向けた笑いは皆無。後者が支配する地上波テレビはオワコン」

 

 

・・・うん。

 

 

え、茂木先生ウーマンラッシュアワーの漫才見て絶賛してるみたいですが、この発言した方と本当に同一人物ですか?

 

 

つまり、今回のウーマンラッシュアワーのネタって権力者に批評の目なんか向けて無いと思うんです。

お笑いの、というか社会風刺ネタの基本って、権力者、強者を笑いのターゲットにするってことなのに。

 

まぁ、被災地の問題とかで批評的な内容を言っていると言えば言ってるかもしれないけど、それにしたって内容が薄い。

 

まぁ、確かにテレビで一芸人が言いにくいことではあるかも知れませんけど、大体がどっかの評論家とか、ブロガーやらが言った以上のことは言ってないでしょ。

 

というか、お笑い的な構成としてはこの部分・・・つまり、権力者に批評的な意見を言っている部分・・・って全部前フリなんですよ、今回のネタって。

 

だからまぁ、内容が薄くても構わないと言えば構わない。

 

 

じゃ、今回のウーマンラッシュアワーのネタが何に批評の目を向けていたかというと、

 

意識が低いと言われ、最終的にお前らのことだよと吐き捨てられる、

 

一般視聴者、一般国民、でしょ。

 

 

まぁ、確かにお笑い芸人という立場を考えれば、一般人はお客様であって、ウーマンラッシュアワー、もっと広く言えばテレビ業界からすれば一般視聴者は強者なのかもしれないけど。

 

 

・・・

 

・・・・・・

 

・・・・・・・・・・いや、それってつまり、客イジリだよね?

 

 

つまり、今回のウーマンラッシュアワーの漫才って、

ネットニュースとかで散々言われていることを前フリとして、

大オチで客イジリをしたに過ぎない、と思うわけです。

 

 

・・・いやぁ、客イジリって、基本ただのツカミでしょ?

 

 

それが大オチってのはお笑いの構成としてもクソだと思うし、

批評の目を向けているのが一般人、一般大衆・・・まぁ、要は弱者だ、ということは、風刺ネタとしてもクソだと思うわけです。

 

え、茂木先生が絶賛していらっしゃる海外のコメディアンって、客イジリがメインで社会風刺をされているんですか?

よくは知りませんけど、政権批判とかをお笑いにまで昇華している人なんじゃないの?

 

逆に言えば客(の政治的無関心)イジリをお笑いにまで高めれば相当レベルの高い社会風刺になるのかもしれませんけど、

今回のウーマンラッシュアワーの漫才がそのレベルに達していたとはとても思えない、わけです。

 

沖縄の問題を沖縄に押し付けるなとか、被災地に家建てろとか、そう言ったら沖縄とか熊本の人が泣いて喜んだとかって話もありましたが、そんなの当たり前じゃんと思います。

それはテレビにも出ている有名な人が、自分たちのことを分かってくれている、ということに対してであって、決してお笑いのレベルを誉められたのではない。

 

それで使命感もって全国ネットでこのネタやらなきゃと思った、って、なんだろーなー、どの程度本気なのかわからないけど、お笑いとしてど~~~なのかな~~~~、とは思いますね。

 

ウーマンラッシュアワーの漫才について、俺の感想としては賛か否かと言われれば完全に否。

 

 

それは面白いとか面白くないを抜きにしても、

 

 

底の浅い社会批評を前フリとして、

 

 

客イジリを大オチとする、という、構成が、

 

 

何か評価されることがあるとすれば今まで一芸人がテレビで言いにくかったことをテレビで思いっきり言った、ってだけで、

 


お笑いとしても社会風刺としてもクソだと思うから。

 

 

てか社会風刺ネタが好きな意識の高い人たちって、

 

 

本当にアレを社会風刺ネタだと思ってるわけ?

 

 

と、思った、という話です。

 

 

というか、客イジリがメイン、客イジリを大オチにも使ってるネタって、つまり綾小路きみまろのネタだからねwww

 

綾小路きみまろのネタがレベルが低いなんて全く思いませんけど、アレが茂木先生が絶賛する社会風刺ネタかと言われると違うでしょwww

 

いや、アレもある意味社会風刺ネタか・・・?ということは、日本で世界レベルの風刺をしている唯一の芸人はつまり、綾小路きみまろ・・・?

綾小路きみまろが、若者の政治的無関心(イジリ)をネタにしたらどうなるか、それはちょっと興味あるなwww

 

これ、どうでしょう、茂木先生とか乙武洋匡さんからコメントいただけませんかねwww


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保毛尾田保毛男的なゲイだって、選択肢の一つに過ぎないと思えば腹も立たないと思うんだけど [ニュース読んでみて]

2017年10月4日の東洋経済オンライン、「保毛尾田ネタ炎上、鎮火しても残る『違和感』」という記事です。

 

内容を無理にまとめると、こんな感じ。

 

・番組中のコーナーで、約30年前に人気だったとされる、とんねるずのキャラクター「保毛尾田保毛男」と「ノリ子」が登場

・これに対して、Twitterを中心に批判が噴出。さらに保毛尾田を擁護する意見も多数寄せられ、いわゆる炎上に発展

・フジテレビ社長が「もしその時代が違っていて、不快な面をお持ちになった方がいたことは、テレビ局としては大変遺憾なこと」と謝罪するに至った

・今回の件が「フジテレビが謝罪してよかった」で終わり、風化していくのではなく、丁寧な対話や、よりよい表現が増える1つのステップになることを願う


 

はーん。


 

今更ながら、この話題に乗っかります。乗っかりますというか、完全に乗り遅れてるんですけど(笑)ひと通り世間の意見も出尽くして、自分の中でもいろいろ考えましたので、そのまとめとして。

 

えーと、まずお伝えしときたいのは、俺自身は女性が好きな男で、マジョリティ側であること。

これはゲイだと思われたくない!とかではなく、マジョリティ側の意見なので、LGBT側の考えは想像でしかないので、何か根本的な勘違いがあったらすみません、ということです。

 

で、その前提で言わせてもらいますと、あーゆーお笑い、キャラクターまで否定するのって、表現の幅云々ってより、LGBT側の首もしめるんじゃないか?ってことです。

 

あの、これはあくまでも想像ですが、保毛尾田保毛男がいたことで救われたゲイってのも当時いたんじゃないかと思うんです。

 

割合は知りませんよ。傷ついたゲイと救われたゲイで言ったら、傷ついたゲイのが圧倒的に多いんだ!って言われちゃったらそれはそれですけど。でも、いると思うんだよな。

 

保毛尾田保毛男が全盛だった当時、世間からしたらゲイは今よりも得体の知れないもので、今よりも風当たりが強かったでしょう。

 

そこへ保毛尾田保毛男が登場する。当時、保毛尾田保毛男のマネをして笑いをとることで、クラスの中で居場所を獲得したゲイってのもいると思うんですよ。

 

お前、ホモかよ!なんて心無い言葉に対し、あくまでも噂なの、なんてギャグで返して、カミングアウトをウヤムヤにする、とかね。

 

つまり何が言いたいかと言うと、とかくマイノリティには生きにくいこの世の中に、あーゆーキャラクターを作る、演じることで、自分のセクシャリティを笑いにすることで対抗する。

これは選択肢の一つとして全然アリだと思う、ってことです。

 

いいか悪いかは別にして、自分のコンプレックスであったり、あまり人に明かしたくない部分について、あえて笑いにすることで逆に武器にしちゃう、というのは普通にあることで。

 

デブがデブをネタにして笑いをとったり、ハゲがハゲネタで笑いをとったり、例はいくらでもある。

 

変な話、おネエタレントだって、そーゆーことですよね?

 

おネエは保毛尾田保毛男みたいなキャラでなく、実際性的なマイノリティである、という点で根本的な違いはありますが、

 

あのおネエのキャラがあの人達の素だとは思えない。ある程度テレビ用にキャラは作ってるでしょ。

 

それで言ったら、おネエの人達は自分の中のマイノリティの部分を笑いとかに変えて、世の中で一定の地位を確立した人達、ですよね。

 

LGBTの人達が実際今回の保毛尾田保毛男騒ぎにどれくらい反応したのかは知りませんけど、

 

LGBTの人達が保毛尾田保毛男を否定するというのは、この笑いにする、という選択肢を否定することだ、と思うんです。


 

で。


 

笑いにする、というのはもちろん選択肢の1つに過ぎず、全てのゲイがとれる選択肢ではない。それは当たり前です。

 

自分がゲイであることに触れられたくないゲイもいるでしょうし、目立ちたくない、静かに暮したいゲイだっているはずです。単純に笑いのセンスのないゲイもいるだろうし。

 

そーゆー人達からしたら、保毛尾田保毛男は不快だと思うんですよね。

当時保毛尾田保毛男的なイジり方をされて不快な思いをしたゲイも当然いると思う。

 

その意味では保毛尾田保毛男は批判されるべきかも知れないです。

 

ただ、それが差別だとか差別じゃないとかの話になってくると、それは俺には違和感があるんだよな・・・

 

問題は、保毛尾田保毛男単体というよりも、

テレビから提供されるわかりやすいゲイのモデルが、保毛尾田保毛男しかないってことなのでは、と思うんですよ。

 

世の中でマイノリティとされるゲイの生きる道として、保毛尾田保毛男的に自分のセクシャリティを笑いに変える、という選択肢はあってもいい。

 

ただ、それはあくまでも選択肢の1つであって、全てのゲイが笑いに生きられるわけではない。

 

それなのに、テレビから提供されるわかりやすいモデルが保毛尾田保毛男なので、世間からすると全てのゲイのイメージが保毛尾田保毛男的に固められてしまう。

 

問題があるとすればそこじゃないかと思うわけ。

 

だから、保毛尾田保毛男は差別的だ!というより、保毛尾田保毛男以外にも、多様なゲイの形を描け!という批判なら、的を射てるんじゃないかと思うんだけどな。


 

保毛尾田保毛男的なキャラクターを作る、演じるというのは、

 

別にゲイの生き方の選択肢の1つとしてはアリだと思う。

 

それができないゲイには不快な思いをさせるだろうから、

 

その意味では批判されるべきかも知れないけど、

 

保毛尾田保毛男を差別的だと言っちゃうと、

 

ゲイの生き方の選択肢を1つ潰しちゃうことになって、LGBT側の首もしめるんじゃねぇか。

 

だから保毛尾田保毛男の話を差別問題というと、どーにも違和感を感じてしまう・・・

 

と、思った、という話です。

 

はーぁ。寝よ。

 

 

モテないヤツは周囲からも同情されません。

 

なぜなら、1から10まで自己責任だから(笑)

 

それはそれで辛いんだけどな~~!!


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痴漢をするのは、他人をモノとしてしか見ていないからじゃねーか、と思うんですけども [ニュース読んでみて]

2017年9月19日のyahoo個人、「『性犯罪者は“マジック”で自己正当化する』 加害者臨床から見た“男が痴漢になる理由”」という記事です。

 

内容を無理にまとめるとこんな感じ。

 

・痴漢は依存症であり、病気という側面を持つ。しかしそのことによって免罪になってしまうのではという声もある

・痴漢加害者には反省を促すよりもまず行動変容をさせることが重要

・痴漢加害者は無意識に男尊女卑的思考を持っており、女性を記号、あるいはモノのように見ている

・加害者はウソをつき、被害者はウソをつきたくはないがPTSDにより記憶が混乱することがある、ということを覚えておいてほしい。


 

ふむふむ。


 

とりあえず前提としまして、痴漢加害者を擁護しようという意図はこの記事には一切ない、ということだけお知らせしておきます。痴漢ダメ、絶対。

 

俺が思ったのは、女性、あるいは他者をモノのように見ている、ってことが痴漢に限らず今いろいろある問題の根本にあるんじゃないか、ってこと。

 

他者のことを、自分と同じように生きた人間であると考えられることが、結構いろんなことを解決するんじゃないかってことです。

 

えーとですね、元記事を読んでもらえれば分かりますが、痴漢加害者の非常に身勝手な痴漢の動機について書かれております。

 

一部引用しますと、

「今週は仕事を頑張ったんだから触ってもいい」

「冤罪もあるんだから自分は触ってもいい」・・・等々。

 

つまりたまたま電車なんかに一緒に乗り合わせた女性をストレス解消の道具としてみているということであり、

 

それは女性を一人の人間とは見ていない、ってことでもあると思うんですね。

 

で、今回の記事は痴漢の話なので女性を下に見ている、って話ですけど、

 

例えば電車の中で泣いている赤ちゃんに文句を言ったり、

 

幼稚園が近所にできるとうるさいからやめろって苦情が出るとかは、

 

赤ちゃんや子どもを騒音発生装置としてしか見ていないってことだし、

 

あるいは飲食店なんかで店員さんに怒鳴り散らしたりしているような客なんかも、

 

店員さんを人ではなく飲食店のシステムの一部としてみている、ってことでしょう。

 

その辺って結局、他者を人間として見られないことが原因ではないかと思うんですね。


 

変な話、他者を人間として見るったって限界はあると思います。

 

例えばアナタの家族、友人、恋人なんかの近しい人が、交通事故にあって亡くなったとしましょう。

 

当然悲しいでしょう、辛いでしょう。もしひき逃げなんかにあっているとしたら、そのひき逃げ犯を殺したいとまで思うかもしれません。

 

ただ、テレビで交通事故のニュースがあって、縁もゆかりもない人が亡くなった、という情報が入ってきたときに、近しい人が亡くなった時と同じ感情を持つ、というのは難しいでしょう。

 

そうは言っても、じゃぁ縁もゆかりもない人とは言え、うわぁ、かわいそう、家族は辛いだろうな、と感情が多少なりとも動くのか。

 

それともまるっきり感情が動かない、他人が死んだなんつーのはもう完全によその世界の出来事くらいに考えるのか。

 

多分、痴漢加害者とかの他人をモノとして見る人は後者なんでないかな、と想像するわけです。


 

元記事の中にもありますが、「もし身内が痴漢被害にあったら?」と聞くと、「その加害者を殺す」とまで言う痴漢加害者もいるそうです。

 

自分の身内、近しい人に対しては、それくらい感情が動く。その意味ではまともな人ともいえるわけです。

 

ただ、これが自分と関係ない人、他人になってしまうと急にモノのように見てしまう。この他者に対する想像力の欠如がそもそもの問題なんでないか、と。

 

痴漢に限らず、いろんなことの、ね。


 

とかなんとか言ってますが、自分をかえりみた時に、ちょっとその、芽はあるかもしれないなぁ、なんてなことは思ったりします。

 

だからその、それこそ俺も痴漢物のAVとかをたしなむこともございます。

 

AVを見てる時に、その、画面の中の女優さんを一人の人間として見てるかというと・・・まぁ、見てませんわな。

 

あ、AV女優を人間として見てないとかじゃないですよ。あくまでもその、AVの中の世界の、キャラクターとしては、という話です。念のため。

 

AVの中で痴漢されている女性を見て、

 

この子にも家族がいるんだろうなぁとか、

恋人とかもいるのかもしれないとか、

朝起きた時点ではこんな目にあうとは思ってなかったろうとか、

痴漢されたことがトラウマになってしまうかも知れないとか、

 

そんなことを思ってたらAVを楽しめない・・・楽しめないって言い方もアレですが(笑)

 

ただ、AVの場合は再生して、終了すればそれで完結する世界なワケです。

AVの中で痴漢されて、嫌がっていた女優さんも、今現在は普通に日常生活を送ってる。

そう思えるからこそ、割りきって痴漢物AVが見られるワケで。

 

世の痴漢物AVをたしなむ男の大部分は、本当は痴漢したくてしたくてしょうがないけど、法律に縛られてできないからAVでガマンしている、というよりは、

 

あくまでも再生して終了すれば完結するファンタジーとして、そのシチュエーションを楽しんでるんじゃないか、と思うんです。

 

多分この辺が、男がなぜ恋人がいるのにAVを見るか、風俗に行くか、女性が理解できない原因なんじゃないかと思うんですけど(笑)

 

だから逆に、現実世界で、一人の人間、一人の女性に痴漢するっつっても、

 

もちろん捕まったら罰せられるという縛りもあるにしろ、

 

仮に俺がこの目の前の女性に痴漢したら、この女性はそのことを引きずって明日からも生きていかなきゃならないんだなぁ、なんてことがほんの少しでも頭をよぎったら、

 

痴漢なんかできないと思うんですよ、いかに痴漢物AVが好きだとしても!

 

ただ、確かにAVの中のこととしても、そこに映っている女性を人間扱いしていないといえばしていないので、

 

他人をモノとしてみてしまう、その芽は自分の中にもあるかもなぁ、なんてなことは思うワケです。

 

もしかして、ものすごくストレスがかかったりしたら自分も痴漢しちゃうのか?とかね。

 

だからその、そう考えると、元記事の中に性加害者の9割以上が男だ、なんて話もありましたが、

 

そーゆー割り切りをするのは男の方が多いかもなぁ、とは思います。

 

女性の方が一般的に共感力が高いと言われてますから、異性に限らず他人をモノのように見るのは女性には少ないのかもな、と思います。イメージですけど。


 

で。


 

痴漢加害者の何が問題かって、男尊女卑的な考え方もあるとは思いますけど、

 

メインは身内は人間として見るけれど、他人になるともう人間とは見ない、モノのように見る、という想像力・共感力の低さと狭さにあるような気がするんですよね。

 

だから多分、痴漢加害者にとって、AVの中で痴漢されてる女性と、電車内で乗り合わせた女性って、感覚的にほぼ同列なんじゃないかなぁ。

 

こういっちゃなんですけど、俺が仮に痴漢物AVをたしなんだ翌日に、電車とかで実際の痴漢の現場を見たって興奮なんかしないですからね!?

 

普通に取り押さえるなり、通報するなりすると思います。

 

前日に痴漢物AVをたしなんでたとしてもね(笑)

 

だってそこで痴漢されてるのは人だし。AV世界のキャラクターではなく。

 

そう考えると、痴漢加害者を縛るものって、法律しかないのか・・・

自分の中のモラルみたいなものが手を止めるってことはないんだな。相手はモノなんだもんな。怖い!

 

最近は凶悪犯罪が増えたなんて話もありますが、相手をモノのように見る人が増えれば、それは犯罪の質も変わるよな、とも思います。

 

例えばある人にひどい目に会わされて、それを恨んで相手を殺す、という場合は、それは相手は人です。

 

ひどい目に会わされたけど殺すなんて、とか、

相手にも家族がいるだろう、とか、

その家族にも恨まれるかも知れない、とか、

 

いろいろな葛藤があるでしょう。

 

それでもなお、恨みが勝って相手を殺す。

 

警察に捕まって裁かれるのはもちろん、相手の家族にも恨まれるし、自分の家族にも迷惑かけるし、自分自身も重い十字架を背負ってその後の人生を生きる・・・

 

本来、殺人てそれくらい重いもんでしょ。

それは、人を殺すからです。モノを壊すんじゃなくて。

 

それを、相手のことをモノのように見てるから、通り魔とかは知らない人をいきなり何人も殺したりできるんじゃないかなぁ。

 

別に重みを感じてるから殺人OKって話じゃないですよ。

 

殺す相手を人と考えるか、モノと考えるかで、殺人事件の質は変わるわな、という話。


 

痴漢加害者の問題は、男尊女卑の問題はあるものの、

 

もっと根本的なことを言えば自分と近しい人以外はモノのように見る想像力、共感力の乏しさにあるのではないか。

 

そう考えると、最近おかしい人や凶悪犯罪が増えているということの原因も、その辺にあるような気がする。

 

女性が性犯罪の加害者になりにくいのは一般的に女性のが共感力が高いからでは?

 

とかなんとか言いながら、自分の中にも例えばキャラクターをモノのように考える部分ってのはあって、

 

それで言ったらものすごくストレスがかかったりしたら、俺も痴漢になってしまう芽はもしかするとあるのかも知れないな。

 

と、思った、という話です。

 

はーぁ、寝よ。

 

痴漢とはまた別方向の変態です、ゆうは(笑)

 

結局ふざけずにはいられないんですけど、護身術としては結構ガチのものなので、頭に入れといてもいいかも。基本は大声のがいいと思いますけどね。


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皆が皆立派な人間じゃないんだよ、夢見がちな人の方が多いんだよ、と、言いたい。 [ニュース読んでみて]

2017年9月2日の文春オンライン、「『君の名は。』『逃げ恥』が高齢童貞・処女を救う」という記事です。

 

2016年12月29日号の週刊文春に載った記事の再録らしいのですが、すみません、俺はこの記事で初めて知りました。

 

内容を無理にまとめるとこんな感じ。

 

・「君の名は。」と「逃げるは恥だが役に立つ」の共通点は、「異性から求められること」と「社会から求められること」の両方が「ありえない設定により同時に実現する」こと。

・現代の若者は、ネット上では活発に交流をしていても「実際に出会い、語り合い、触れあう」という濃密なコミュニケーションが求められる恋愛は、大の苦手となってしまっている

・かつてのトレンディードラマのような、自由で洗練された恋愛などではなく、あらかじめ枠組みを設定された上での「ぎこちなくも初々しい純愛」を求めている

・両作品のヒットは、「異性から求められること」「社会から求められること」という真っ当な欲求を自力でかなえるための、現実的な道筋が極めて見えづらくなっている若い世代からの切実なSOSでもある。


 

はっはーぁ。


 

すみません、俺自身は「君の名は。」も「逃げ恥」も見てないんですが、この記事は面白いと思ったな(笑)

 

えーと、俺が思ったのは、結局のところ「自分の人生は自分で切り開く」みたいなことを思っている人ってあんまりいないんじゃない?ってことで。

 

トレンディードラマが流行っていたころは、まぁ景気が良かったんでしょうから、ちょっと頑張れば自力で人生切り開けたのかもしれないですけど。

 

でも本来的にはやっぱり自分の腕一本で食っていこうとか、組織に所属することなく生活していこうというのは、

どんな時代でもリスキーだし、相当強い意志が必要だろうと思うんですね。

 

サラリーマンという働き方はごく最近のもので、学校を卒業したらほとんどの人がまず就職、なんてのはむしろ歴史としては浅い。

なんて話もありますが、いつの時代も人間は「経営者」と「従業員」という2つに分けられて(ただし時代により呼び方は異なると思いますが)、しかも「従業員」の方が圧倒的に人数は多いんですよね。

 

で、ヘンな話世の中って少数の経営者と大多数の従業員がいる、という前提でいろいろシステムができてたと思うんです。

 

というか、身分制度ってそういうことでしょうよ。

 

ごく少数の王族・貴族と、その他大多数の庶民がいる、という構図は、もろに国を経営する経営者である王族・貴族と、税金を納める庶民は従業員という構図でしょ。

 

それが100%いいってわけではなくて、もちろんそれによる弊害もあると思いますよ。

 

その、奴隷として生まれたら一生奴隷として生きなきゃいけない、とかさ。

王族・貴族が庶民から搾取して私腹をこやしたり、とか。

 

でも身分制度ってずいぶん長いこと人間の歴史の中にあったわけで、うまく回っている分には結構有効なシステムだったんだと思うんですよね。

 

その身分制度の前提は人間は少数の経営者と、大多数の従業員という2つに分けられる、ということではないかと。

 

けっこう長いこと歴史の中にあった身分制度がそういう前提だったってことはこれって結構人間の本質をついているのでは?なんてなことを思うわけです。


 

で。


 

現代の日本では一応身分制度はないわけです。

 

これはつまり、生まれた家が貧乏であったとしても、男でも女でも、(リスクはあるにしても)経営者になったり、資産家になったりすることは可能、ということです。

 

ただ、この記事を読んでいくとそんな、経営者になったり資産家になりたい!という人がどんくらいいるわけ?とか思ってしまう。

 

記事の中で言う「異性から求められること」と「社会から求められること」の両方が「ありえない設定により同時に実現する」こと、これって要は昔で言う「白馬に乗った王子様が迎えに来る」みたいなことでしょ。

 

現代の不景気な日本の中で、何か劇的なことが起こって状況が好転する、ということを夢想するのは分かるけど、じゃぁこの夢想している人たちが景気が良くなって起業しやすい状況になった時に経営者になるかというとそんなことはないだろうな、なんて。

 

多分、身分制度を取っ払ったりとか、自由、平等をうたっている人達って、人間生まれついての鎖みたいなものから解き放たれれば、皆高みを目指す、皆努力する、みたく思ってたんじゃないかなぁ。

 

で、いざ身分制度がなくなってみると、あれ、案外そうでもねーぞ、みたいな。

 

結局従業員気質の人は従業員気質だし、人生自力で切り開くんでなく、なんかの拍子に人生好転する、みたいなことを夢想する人ってかなりたくさんいるみたいだぞ、みたいな。

 

ちなみに俺自身は自由、平等が最上、みたいな思想は基本的には信用してません。

 

人間完全に自由になったら皆向上して、みんな幸せを目指す、みたいな。そんなわけないじゃん、と。

 

いや、俺がそうなので。俺を自由にしちゃったら、毎日ダラダラするに決まってんだから(笑)


 

身分制度を復活させるべしとは思わないものの、

 

身分制度を無くして成功しやすい世の中になっているにもかかわらず、結局あり得ない展開で人生うまくいく、みたいなことを夢想する人が多い以上、

 

自由とか、自己責任とか言っちゃう前に経営者気質と従業員気質に分けられるということは前提として仕組みに組み込むしかないんじゃないかなぁと。

 

いや、結局大概の人間はほっといたらダラダラしちゃうもんですからね。

 

俺を含めた大部分の人間は、立派な人間じゃないんだから(笑)

 

と、思った、という話です。

 

はーぁ、寝よ。

 

 

結局、理想的な展開(告白されるとか)があったとしても、受け止めきれないんだ、童貞には(笑)

 

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