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いじめだパワハラだって、構造から否定することを言うと、教育そのものの否定にならないかい?という。 [ニュース読んでみて]

2018年5月18日、現代ビジネスの「日本の学校から『いじめ自殺』がなくならない根本理由」という記事です。

 

内容を無理にまとめるとこんな感じ。

 

・福井県の中学校で、教員のいじめが原因となる生徒の自殺事件が起きた

・学校や軍隊といった閉鎖的な空間で、上官等からいじめられて自殺するケースはよくある

・世間では残酷、理不尽、非常識とされることでも、閉鎖的な空間の中ではあたりまえとされてしまうことがあるため

・日本の学校の全体主義への染まり方は、連合赤軍が「ブルジョワ的」障害と言い、オウム真理教が「地獄に落ちる」障害と言っていたのと、どこが違うのだろうか


 

うーん。


 

あの、なんだろ、俺が思ったことなんですけどね。

 

何、この人は、教育ということそのものを否定したいの?ということで。それはその、学校というシステムに限らず、なんですけど。

 

もちろん福井県で起こった自殺事件の加害者である教師をかばいたいとか、そういうことじゃないですよ。

 

学校というシステムの問題点をいろいろ指摘していて、その中では確かになるほど、と思えることはたくさんある。

 

ただ、問題点があるからとまるっきり否定しちゃって、連合赤軍やらオウム真理教なんかとならべるだけってのは、それは教育そのものの否定になりませんか?という。


 

要するに、ここでこの筆者が指摘しているのは、教育そのものが陥りやすい問題点だと思うんですよ。


 

軍隊も、学校も、まぁ、言ってしまえば連合赤軍だのオウム真理教も、

「その組織が持つ、ある特定の目的に沿った人間を作ろうとしている」

という意味では共通している。

 

軍隊は兵士を作ろうとしているし、

学校は「勉強のできる人」「一般常識のある人(まぁ、実際その目的が達成されているかはともかくとして)」を作ろうとしている。

 

連合赤軍もオウム真理教も、自分たちの組織にとって都合のいい人を作ろうとしている、のでしょう。


 

その意味では、横並びにされるのもある部分では仕方がない。

 

その、各組織が理想とする人間像、及びその育成方法が世間に広く受け入れられるかどうかの違いはあるものの、

「その組織が持つ、ある特定の目的に沿った人間を作ろうとしている」

のは共通しているわけで。

 

それは、とても人気のある進学校とかでも一緒でしょ。

 

つまり、進学校の目的は例えば、

 

「とても勉強ができ、いい会社に入ったり役人になったりして、エリート街道を驀進できる人間を作る」

 

という目的であって、

 

その目的が「自分の子どもをそうしたい」とか、「俺はぜひエリート街道を驀進したい」とか思ったりした人たちに広く支持されて、しかもそこの卒業生が社会に貢献したりして、世間の評価も得ているのが進学校なわけですが、

 

じゃぁそういう人間を育成するために夜遅くまで補習授業をしたりとか、毎日どっさり宿題を出したりとか、そういう世間一般の感覚からするととんでもないことをしてるのも進学校でしょ。


 

もっとわかりやすいところで言えば、軍隊とか自衛隊は自国を守る兵士をつくるための教育をするわけですが、

 

そのために銃とか兵器の使い方を学んだりとか、体力づくりのために過酷なトレーニングを積んだりするわけですよね。

 

でも世間一般の親の感覚からしたら銃の使い方を教える!?過酷なトレーニングを受けさせられる!?そんなのとんでもない!って話で。

 

じゃぁ軍隊での教育が間違ってるかってーとそんなことはないわけでしょうに。


 

教育ってもともとそういうことを含むというか、多かれ少なかれいじめとか、パワハラ、セクハラ、しごきみたいな側面を含むものでしょう、と思うわけ。

だって、何かの価値観に基づいて、その価値観に合った人間を作りだそうってのが教育なんだからさ。

 

1+1=3て書いたら、テストでバツにされた、これは一方的な教師の価値観の押しつけだ!とかさ、言おうと思ったらどうとでもなるじゃんか。

でもそこで1+1=2だって教えるのが教育なわけで。それをパワハラだとかって言われちゃったら教育なんて成り立たないじゃんか。


 

もちろん、今回の福井県の中学生自殺事件の原因となった教師を弁護する気なんかありませんし、

世のいじめ、しごき、パワハラ、セクハラみたいな事件が全部教育上のことだからしょうがない、なんていうつもりはありませんよ。

 

いじめなんか、なくなるならこの世から無くなった方がいいに決まってる。


 

ただ、話をするなら学校というのはこういう構造で、こういう部分でいじめが発生しやすい構造であり、だからこういうことに気を付けなければならない、とかって話にしないといけないんじゃないかな、と思うんです。


 

日本の学校はこういう構造だからダメだ、っていう話で終わっちゃうと、教育そのものの否定、になりかねないのではないかと思う、わけです。


 

で、ね。


 

結構世の中のパワハラ騒ぎとか、セクハラ騒ぎに感じる違和感てその辺から来るんじゃないかな、なんてことを思ったりもするんです。

 

なんべんも言いますけども、いじめ、パワハラ、セクハラ、全部なくなるならそれはそれにこしたことはない。

 

ただ、教育そのものがもともとそういう側面を持っているんじゃないかと思うんですよ。

 

スポーツとかの話で言えば、例えばオリンピックに出るための過酷なトレーニングと、いじめ、パワハラの境目って何?と思うわけ。

 

世間一般から見たら、そんな常軌を逸したトレーニング、いじめ以外の何物でもない!と思うかもしれないけど、オリンピックで勝つためには本当に才能のある人がそれくらいトレーニングしないと勝てないんだ!って言われたら、うーんってなるしかない場面もあるでしょう。

 

でも構造的に、その過酷なトレーニングが理不尽なしごきであったり、パワハラになってしまいやすい、という面もある。

じゃ、しごきやパワハラにならないためにはどうしたらいいの?という話をすべきなのに、

 

なんとか協会の閉鎖的な体質がどうとかこうとか、それはちょっと違うんでないかなぁ、と。

 

いや、スポーツの協会なんて閉鎖的に決まってるじゃん、いちいち世間の声に耳を傾けて、暴力的だなんだとか言われないようにして、結果トレーニングがぬるくなってオリンピックで勝てなくなったらそれはそれで叩くんだろ?なんてなことを思うわけです。


 

閉鎖的で、いじめが発生しやすい、その構造が学校の問題点だというのはよく分かる。


 

ただ、その構造の中で、どうしたらいじめが発生しにくくなるのか、という話になるならともかく、


 

その構造自体を否定するというのは、ちょっとどうなのかと思う。


 

学校に限らず、教育を目的とする機関は全て閉鎖的になるに決まっているのであって、


 

時には一般的な感覚からしたらいじめといえるくらいのことを行うことで、大きな業績を残すようなこともたくさんある。


 

一般の感覚を取り入れるというのは聞こえはいいけども、


 

それって結局教育そのものの否定であって、


 

だからこの記事に限らず、パワハラとかのニュースを見たときに、なんとなく違和感を感じるのかなぁ、と。


 

もちろん、いじめだのパワハラだのはなくなった方がいいに決まってますけどね。


 

と、思った、という話です。


 

はーぁ、寝よ。

 

①、②、③、どこからがいじめ、パワハラだと思いますか?

 

いろんな意見があるとは思いますが、受ける側の性癖にもよるというか・・・

 

・・・いや、管理人の性癖とは関係ないですよ!?



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