常識を鎖扱いするのもいいけど、一回立ち止まって考えた方がいいんじゃないかとも思う [ニュース読んでみて]
8月15日のBUSINESS INSIDER JAPAN、「このCMは男性にこそ見て欲しい ― 幻の男女像にとらわれる日本」という記事です。
内容を無理にまとめると、こんな感じ。
・化粧品大手ポーラのリクルートCMのキャッチフレーズは、「この国は、女性にとって発展途上国」
・日本では女性はこう生きた方がいい、男性はこう生きた方がいいというジェンダー的なステレオタイプが強く存在している。
・内閣府の「女性の活躍推進に関する世論調査」(2014年)によると、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」との考え方について、「反対」は49.4%「賛成」は44.6%で拮抗
・「(ジェンダー的な)発展途上国」にいるのも、「幻の男女像」に縛られているのも、女性だけではなく、男性も葛藤している。
ふーん。
えーと、俺個人の考え方として、この記事の中に出てくる「鎖」、「こうあるべき」という考え方、ま、いわゆる「常識」ですよね、については、もうちょっとちゃんと考えた方がいいのではないかと思っていて。
例えばその、「男はある年齢になったら嫁さんをもらって家庭を持ち、しっかり働いて家族を養うべき」「女性は若いうちに結婚して、家庭に入り、子どもを産んで育てるべき」という「常識」があるとしましょう。
この常識が100%正しく、人間はすべからくこの常識に従うべきであり、この常識に従えないヤツはダメである、な~んて言うつもりはありません。
ただ、なぜその常識ができあがったのか、ということはちゃんと考えた方がいいのではないか、と。
こんな常識が出来上がったのは近代の高度経済成長期とかだから、伝統の価値観じゃないんだから従う必要はない、なんて話もあったりしますが、じゃぁもっと前の常識はどうだったのか、その常識はなぜできたのか、ということまで考えた方がいいんじゃないか、と思うわけです。
つまり、常識って「正解」の一つだと思うんですよ。
で、俺みたいなのんべんだらりと生きている人間にとって、「正解」があるってのはとてもありがたい、と思うわけです。
もちろん「正解」の「一つ」であって、「唯一の正解」ではないですよ。
ただ、「正解」が数々ある中で、かなり強い意志を持って努力しなきゃいけない「正解」って多いと思うんです。
例えば厳しいトレーニングに耐えてオリンピックに出る、あるいはプロスポーツ選手になる!
とか、
小さくても自分のお店を持ち、腕一本で食っていく!
とか、
起業して社長になり、会社をどんどん大きくして年商何億を目指す!
とか、
そんな自分にとっての「正解」を持っていて、明確な強い意志を持って努力できる人がどんくらいいるの?と、思うわけですよ。俺は無理だよ、少なくとも(笑)
意思の弱い人間にとってさ、とりあえず従っておけば「正解」に辿り着ける「常識」がある、というのはとてもありがたい。
さらに言えば、「常識」にまでなっている、ということは、「そうしておけばうまいこと行く、幸せになれる人が、結構高めの割合でいる」ってことだと思うんです。
俺が常識についてちゃんと考えた方がいいんじゃないかと思っているのはここで。
じゃ、仮に「女は早めに結婚して家庭に入り、子どもを育てるべき」というのが常識だとしましょう。
もちろんその常識に当てはまらない女性がいるのは分かってますが、
でも少なくともある時代には女性はそうしておくとうまいこと行く、幸せになれる女が多かったということであり、
じゃぁ早めに結婚すると幸せになれる女性が多いのはなぜ?ってことを考えた方がいいと思うわけです。
何が言いたいかというと、常識に100%従うべき、なんて言いたいわけではないですけど、
俺を含めた意志の弱い人間が正解に辿り着くために常識ってのは必要だと思うし、
常識に従っておけば幸せになれる人が多かったのであれば、その常識は人間(男女問わず)の本質にある程度沿っているのでは?
であれば、ただただ常識を否定するのではなく、なぜその常識ができたのか、ということをよく考えた方がいいのではないかと思う、ということです。
で。
そう考えると、もちろん常識について考える必要がある・・・それはいい面についても、悪い面についてもですが・・・というのは前提として、
どっちかというといけないのは常識の方というよりは、常識という正解を失ってしまった時代の方ではないのか?なんてなことを思うわけです。
つまり、男は嫁さんもらって家族を食わせていくべし、女は早めに結婚して家庭を支えるべし、が常識だとして、その通りに生きる、なんて今どれくらいの人ができるわけ?って話じゃないですか。
男が自分一人の稼ぎで家庭を支える、ってこともできる人は少ないし、女だって早めに結婚して仕事辞めて家庭に入るなんてことしちゃったら生活できない、って人は多いでしょ。
ヘンな話、常識がある社会・・・大部分の人がその常識に従っていれば、正解に辿り着ける社会・・・って、そこそこ豊かな社会なんじゃねぇかな、とも思うんですよ。
だって常識に従ってれば正解なわけですから。今って正社員になれば安心、みたいなことないですからね。何にも考えずに生きてたら貧困に陥ってしまうわけですから。
もちろん、時代に合わない常識を他人に押し付けようとするおっさんおばさんはどうかと思いますよ。
ただ、常識というものに力がなくなり、才能があって自力で人生切り開く!みたいな人はともかくとして、俺みたいなその他大勢、俺みたいなぼーっとした人間が、それぞれ自力で生きていく道を考えなくてはいけない、ちゃんと考えないと貧困に陥ってしまう世の中、というのもそれはそれでどうなのかな、なんてことも思うわけです。
社会が、自分が自分を縛る鎖、こうあるべきという考え方、いわゆる常識について、
もちろん時代に合わないものもあるし、そのせいでしんどい思いをしなきゃいけないのであれば縛られるべきではないとは思うものの、
常識にはそれなりに生活の知恵であったり人間とはこういうもの、みたいなことが織り込まれてるんじゃないかと思うから、簡単に否定してもいいのかな、とも思うわけ。
むしろ今常識というものが力を失っていて、ものすごく不景気になっていることを考えると、
大部分の人が従っておけばそれなりにうまくいく常識がある、というのは、逆にそこそこ豊かな社会でもあるんじゃないか、なんてなことも思うんです。
てか、将来に熱い夢がある、絶対に成し遂げたいことがある、みたいなことがない俺みたいな人間からしたら、
常識、ほしいよ~。とりあえず従っておけば自分的にも周りからもそれなりに認められる、常識、ほしいよ~。鎖に縛られてたいよ~(笑)
と、思った、という話です。
は~ぁ、寝よ。
こんな辛い女子会があるだろうか。意外とありそう(笑)
なんかもう、キャラの年齢設定がよくわかんないことになってきた(笑)
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仏教の伝え方を問題にするより、どうしたら本質が失われないかということを議論した方がいいのでは [ニュース読んでみて]
8月3日のAERA、
「檀家制度廃止で収入4倍 仏教界騒然のお寺」という記事です。
内容を無理にまとめるとこんな感じ。
・檀家制度廃止、という改革に着手したお寺がある
・檀家や他のお寺からは厳しい批判もあった
・お布施の定額化や、経理の公開といった改革を行う
・日本の仏教は死後に関わり過ぎている。仏教の教えは本来生きるための教えなので、生きている間に何ができるかを伝えていきたい
ほほーぅ。
えーと、俺が思ったのは、
自己啓発系のセミナーとかで、やたらと盛り上がるヤツを、
宗教みたいとか、セミナー講師を教祖みたいとか揶揄する場合がありますが、
この記事では宗教の方が会社に寄せてきたなぁ、と(笑)
いや、それが悪いことなんて全然思いませんよ。
変な話、現代の会社組織・・・まぁ、物を作って売ってるような会社は別としても、セミナーを全国でやってますとか、コーチングの会社です、みたいな会社って、言っちゃえば宗教みたいなもんでしょ?
なんらかの神様とか仏様は掲げてないにしても、人の考え方に影響を与えて、行動を変える、という意味では。
もちろん行動が変わることに利があるからセミナーとかコーチングの会社は成り立ってるわけですけど、じゃ、仏教がそれをやったっていいじゃない、とは思うなぁ。
むしろ仏教みたいな長い歴史のあるちゃんとした宗教がその辺のことちゃんとやれば、訳のわかんないセミナーにハマって何百万も金とられる、みたいなことが減ったりして、なんて。
まぁ、元記事の中ではセミナーどうこうみたいな話は無かったですけどね(笑)でも今って、仏教の言葉、みたいのが本になって結構売れる、なんてこともありますから、意外といいんじゃないか、なんて思ったり。
で。
この辺の話とか、記事の中で出てきたような話って、結局のところ伝え方の問題ではないか、と思うんですよ。そんで、伝え方によって、もともとの精神が損なわれるってことはないのではないかな、っていう。
かなり乱暴な例えですけど、例えば1+1=2ということを伝えたい時に。
ひろしくんがみかんを1つ持っていました。ひろしくんはみかんをもう1つもらいました。
ひろしくんはみかんをいくつ持っているでしょう?
という問題があった時に。
仮にみかんが無い国でこの問題を出しても、みかんが何か分からないだろうから、みかんをその国にたくさんあるマンゴーに置きかえよう、ってなっても、別に1+1=2という部分は変わりませんよね?
檀家制度を廃してはダメだ!って言ってる人は、みかんをマンゴーに変えたら1+1=2が伝わらなくなる!って言ってる、みたいなもんではないか、という気がする。
もちろんこの例えは単純過ぎるので、いろんなことを説明できてないとは思いますが、
本当に大事なのは、伝え方でなくて本質が変わらないようにすることじゃないか、って気がするんですよね〜。
だから例えば、お布施を定額化して、お寺を株式会社化して、めっちゃくちゃ儲かった時に、
その会社の社長たる住職がめちゃくちゃ高いマンションに住んだり、高級車に乗ったり、女はべらしたりしたらいろいろ本質がズレてくると思うんですよ。
だから、そうならないための仕組みを考える、とかね。
この記事の橋本住職はもちろんそんなことなさらないとは思いますし、
そうならないように心得十ヶ条を設定されてるんだとは思いますが、
じゃぁ、橋本住職のような高潔な志をもっていない生臭坊主が出てきた時にそうさせない仕組みは心得十ヶ条で充分なのか、とか、その辺の検証はまだまだ必要だとは思います。
とはいえ、伝え方、人の集め方みたいなことは時代によって変わるのは当然、
大事なのは仏教の本質、僧侶の本質みたいなことをしっかり考え、
それが失われないようにするにはどうするか、というのを考えなきゃいけないのでは。
と、思った、という話です。
はーぁ、寝よ。
正社員になってゆるゆる働く、みたいなことができないんなら、正社員になるメリットなんかひとつも無い [ニュース読んでみて]
7月31日のダ・ヴィンチニュース、
「『貧困』はもはや他人事ではない…。女性たちが『貧困』に陥ったのはなぜか?【著者インタビュー】」という記事です。
記事を無理にまとめると、こんな感じ。
・「貧困は社会問題」で、女性の貧困は、ぱっと見ではわからない
・『女子と貧困』という本では、8つのケースが紹介されている
・支援者や支援団体とつながって、良い方向に向かえた人もいるが、ほんの一握り。声をあげられない人とどうつながっていくかが、今後の課題
・そんな状況だからこそ男性に期待や依存をするのではなく、同じ境遇の女性たちでつながり、情報や打開策を共有していく必要がある
ふーん。
えーと、俺が思ったのは、なんか、ホントに、会社に勤めるメリットって失われてるよな、ってことで。
あの、例えば起業して、会社作って、ガンガン働いて、たくさん人雇って、一財産築いてやる!って人がいるとしますよね。
そーゆー人はたくさん働けば働くほどお金が稼げるかもしれないけど、同時に勉強しなきゃいけないことも増えます。
例えば人を雇う場合の法律のことだったりとか、
会社の収支を計算する会計のことだったりとか、
部下を使う場合のマネジメントのことだったりとか、
税金に関する法律のことだったりとか、
ま、いろいろ勉強しなきゃいけないでしょーよ。他にもたくさんあるだろうけど。
フリーランスでやっていこうって場合も、まぁ人を雇う必要はないかもしれないけど、税金のこととか、いろいろ勉強しなきゃいけないですよね。
こーゆー人たちは、まぁ自己責任で生きていこうという人達。
たくさん勉強しなきゃいけないし、事業や仕事が失敗したら借金背負うことになるかもしれないけど、たくさんお金を得られる、可能性がある生き方ですよね。
で。
起業家、あるいはフリーランスではなく、会社員として生きていくメリットって何?と考えたときに。
上記のような勉強・・・法律とか、マネジメントとか、会計とかの勉強をしなくていい、ということだと思うんです。得られるお金は少ないかもしれないけど。
もちろん仕事を進めるうえで、管理職になったらマネジメントスキルはいる、とかそーゆー話はあるでしょうが、
まぁ起業して自分の会社を作って、という場合とは別次元の話でしょう。
得られるお金は社長よりも少ないだろうけど、法律とか、マネジメントとか、会計とか、その辺の経営に必要な勉強を(社長ほどは)しなくていい、その辺は分からなくても会社が何とかしてくれる、ってのが会社員のメリットでしょう。
実際そんな人っていっぱいいると思うんですよ、まぁ、俺も含めてですけど(笑)
つまり、毎月給料が手取りでいくらか、ということくらいは把握してるけど、毎月税金がどれくらい天引きされてるかもわからない、それくらいは分かったとしてもなぜその金額引かれてるのか分からない、とか。
別に会社で出世しなくていい、管理職にならなくていい、ってことはつまりマネジメントとかについて勉強する気なんかさらさらない、とか。
大き目の会社で、そこそこ給料もらってる人でもそんな人いそうだよな。まぁ、それが会社員として生きるメリットなんですけど。
で、ね。
その視点でこの記事を見たときに、おかしくない?と思うわけです。
それは何かというと、ブラック企業に勤めていて給料が安い人、であったり、
キャバクラ・・・は多少給料はいいのかもしれないけど、そうは言ってもバイトでしょ?と、いう人達が、
より法律・・・自分の受けている扱いは法律違反である、とかね、
支援してくれる団体についての勉強をしなければならない。
経営者の勉強をしなくていいから会社員、ないしはバイトとして仕事していこう、と思った人たちが、
なんだかたくさん勉強しなくちゃならない。
それってなんだか、おかしいよなぁ・・・と。
もちろん勉強しなくて済むように、従業員を守ってくれる会社ってのもたくさんあると思いますよ。
ただ、それって最近ではホント大企業に限られると思うんですよね。
会社員のメリットが勉強しなくていい、ってことだとしたら、従業員を守らないから自分自身を守るために勉強しなければならないブラック企業とかで働くメリットなんか何もない、と思うわけ。
経営者やフリーランスが法律なんかの勉強をすることは、自分の収入を増やすことに直結する場合もありますけど、
ブラック企業から身を守るために勉強する法律って、いったいどこにつながってるの?なんてなことも思うわけです。
そりゃ、未払いの給料を回収したりはできるかもしれないけど、収入が増えるとか、自分の幸福につながるとか、そういうことにはなりませんよね。
そう考えたら、大企業とか、本当のホワイト企業とかに勤める以外に、会社員として生きるメリットなんか何にもないよなぁ、と、思いますな。
この記事の著者も、まぁ責任を果たさせるという意味でブラック企業への訴訟とかはするべきだとは思いますけど、
声を上げた女性を集めて会社でも立ち上げて、自力で稼いでいく力をつけていかないと根本的な解決にはならないかもね~、とは思ったりして。
会社員として生きるメリットが、経営者としての勉強をしなくていい、ってことだとすれば、
自分自身を守るために別の勉強をしなきゃならないブラック企業は、会社員として働くメリットが無い。
とはいえそうなると、
大企業に就職できるような優秀な人は会社員として働けて、
大企業に就職できない能力的には劣る人は独立、起業すべき!という話になって、
それはそれでなんだか歪な構造だなぁ~、と、思った、という話です。
は~ぁ、寝よ。
バッシングが起こらない社会ってのも多分ロクなもんじゃない [ニュース読んでみて]
7月2日のyahoo個人、「バニラエアだけじゃない。AKB、AV強要、セクハラ。物言う人をバッシングする風潮で私たちが失うもの」という記事です。
内容を無理にまとめるとこんな感じ。
・最近ではバニラエアの問題があるが、不正なことを正そうとし、権利を主張する人がバッシングされる、ということが広がっている
・例を挙げると、塩村議員へのセクハラ野次、AKBの恋愛禁止ルール、AVの出演強要問題に対する自己責任論等
・今は当たり前になっていることでも、数十年前の人が意義を唱えて勝ち取ってきたことも多い
・「物言う人」へバッシングして若い芽を摘むのではなく、声を上げる人を応援して支えあう社会にしていくことが大切
ふーん。
俺が思ったのは、社会ってそういうものじゃない?と。
変わったことを言えば、いい悪いは別にしてバッシングされるのが世の中じゃない?と、思うんですけど。
バッシングが起こらない、常に建設的な議論が巻き起こる社会って、それはそれでどうなんだろうなぁ?とは、思うんですけど。ちょっとコストがかかり過ぎるというか。
バッシングの根本に流れていることが、「決まりを守る」「迷惑をかけない」ことを教え込まれたからだ、という指摘も、まぁ正しいとは思う。
まぁ、女性=弱者という考えにより過ぎてるような気はしますけど、大筋で間違ってるとは思わない。
ただ、国ごととか、文化によって程度の差はあれど「決まりを守る」「迷惑をかけない」という意識でいる人がたくさんいるのが社会ってもんだし、
そうでないと社会が立ち行かなくなるじゃぁないか、と思うんですよね。
えーと、記事に出てくる事例の、声を上げている人たち・・・例えばバニラエア問題の当事者であったり、AKBの恋愛禁止であったりとか・・・が、正しいのか、正しくないのかということは俺には判断つきません。
判断つかないなりに言わせていただきますと、正しいとすれば既存の間違った社会システムに風穴開ける勇気あるチャレンジャーなわけですが、
正しくないとすれば単なるクレーマーなわけです。
提案されたことに対して必ず建設的な議論が発生する社会って、
クレーマーの言うことに関しても議論をしなきゃいけないってことで、
それはちょっとコストというか、手間がかかり過ぎて、いろんなことが立ちいかなくなるんではないかい?と、思うんですよね~。
そんななか、バッシングが巻き起こるというのは、
ま、最小限のコストでクレーマーをはじく社会的なシステムなのではないかな、と思うわけです。
もちろんはじかれる中に単なるクレーマーでなく、既存の停滞したシステムに風穴を開ける勇者が紛れていることもあるわけですから、
100%すんばらしいシステムではないわけですが、
まぁ、そのシステムでまぁまぁそれなりにやってってるのが今の社会なわけで。
そこを何とかしようとしてもしょうがないんじゃないかな~と思うんです。
要は、この記事の筆者が記事に出てくるような人たちを応援したいと思うのなら、
バッシングを無くそうとするよりも、社会システムに風穴あけようと奮闘する人々を応援する記事を一生懸命書いた方がいくらか建設的なんじゃないかと思うんですよね。まぁ、それはそれで書いてらっしゃるみたいだけど。
それではバッシングはなくならないし、声を上げにくい社会のままだ、というのはそれはそうなんですけど、
バッシングがある中で声を上げ、社会を変えていく人は偉大だし、
バッシングが全くなくなった社会が素晴らしい社会かというと、
クレーマーの意見までしっかりくみ取って議論しなきゃいけない社会がいい社会か、というとあんまりそうは思わない、わけです。
で。
そう考えると、現代日本って割とクレーマーの意見が通りやすい社会、ではありますよね(笑)
例えばテレビCMに対して何人かがクレーム入れただけで放映が中止になる、とかさぁ。
炎上騒ぎで芸能人が謝罪したり企業の偉い人が謝罪したりってあるわけですが、アレも実際に騒いでるのは数人とかだったりするみたいですよね。
そういうことがあると、そんなことでクレーム入れて、とか、クレーマーに負けて放映中止するなんて、なんてバッシングが起こったりするわけですが、
分かんないですよ、本当にそのテレビCMに根深い問題があって、既存の社会の価値観に縛られた凡人が誰も気づいてない問題点に気付き、いち早く声を上げた勇気あるチャレンジャーかもしれないじゃないですか、クレーマーじゃなく。
・・・プッ。
・・・あ、すみません、自分で言ってて笑っちゃった(笑)
だから、インターネットが発達し、個人で発信できるツールがいろいろ増えている中で、
ある個人ないし少数派の人間が声をあげ、実際に社会に影響を与える・・・それは例えばCMの放映が中止になる、とかね・・・ということが起こりやすい社会になっている、ということは言えると思うんです。
そういう意味では、この記事の筆者が言う、勇気ある個人が声をあげやすく、あげた声が通りやすい社会は、ある部分では達成されている、とも言える。
じゃ、その結果どうなった?ってことなんですよ。
規制とか自粛が増え、テレビがつまんなくなったとか、息苦しい社会になったとか、いろんなところで言われてるわけじゃないですか。
例えばテレビ番組を作ったとして、不快な思いをする人がゼロにはならないわけだし、
かといって企業としちゃクレーマーといちいちやり合うなんつーのは完全にムダなコストなわけだから、
そりゃ当たり障りの無いもんが増えていくに決まってる。結果、テレビ番組がつまんなくなる、ってのも、それはそうだとおもうんだよな。
あれあれ、声をあげやすくなり、議論が起こりやすくなっても、あんまりいい結果は生まないみたいだぞ?と、思うわけです(笑)
もちろん正しい意見に対してバッシングは起こらないに越したことは無いわけですけど、かといってクレーマーの意見をいちいちくみ取っていこうというのもちょっと違う。
だからまぁ、異なる意見にバッシングが起こる社会と、少数派の意見でも議論が起こりやすくて通りやすい社会と、どっちがいいか悪いか・・・
まぁ、どっちもどっちといえばそうなんだけど・・・
どっちかと言えば、異なる意見にバッシングが起こる社会の方が健全かなぁ、と思うわけです、俺は。
あの、かかるコストが、小さいでしょ。異なる意見をクレーマーも含めていちいち拾い上げて議論するより、異なる意見をとりあえずはじいちゃう、方が。
どっちもロクなもんじゃないのなら、コストが小さい方がまだマシなんじゃないかと思うんですけど、どうでしょう。
もちろん異なる意見を絶対に受け入れるな、という話ではないですよ。
社会の常識と異なる意見に関して、声をあげるのは大変だし、声をあげた人はえらい。
でも異なる意見にバッシングをするな、ってのはちょっと違うんじゃねーか。
バッシングは起こるもんとして、どうしても社会の常識と戦うのならバッシングが起こるのも織り込んで戦うしかないんじゃないかなぁ。
バッシングは無いに越したことはないものの、
異なる意見にバッシングが起こる社会の方が、異なる意見・・・クレーマーも含めて・・・を全部拾い上げてイチイチ議論する社会よりかはなんぼかマシだと思いますので。
と、思った、という話です。
ちなみに個人的な意見ですが、
バニラエアの件について。
バニラエアが障害者に優しくない航空会社だったのはそうなのかも知れませんが、
あのバニラエアをイヤらしく、狙い撃ちしてるかんじの、
あのやり口はいけすかねーな、と、思いました。
ホント、余談(笑)
はーぁ、寝よ。
ちょいワルジジとかじゃなくて読者に紳士としての教育をしてみるってのはいかが? [ニュース読んでみて]
6月15日のWedge、「『ちょいワルジジ』を擁護する人がいない理由」という記事です。
内容を無理にまとめるとこんな感じ。
・GGという雑誌の、新創刊前にちょいワルジジになる方法を指南するネット記事が炎上。
・美術館でナンパをする方法が書かれているが、その方法に批判が集中
・女性はおろか男性からも散々批判される
・マスコミが虚構を作る時代は終わり、消費者目線に降りてこないテレビや雑誌にネットの視線は冷たい、ということに編集者は気付いているのだろうか
ふーん。
なんつーのかな、こういう記事が炎上するってことは、そりゃ草食化が進むわな、と思うわけです。
いや、俺だってこの記事に書いてあるようなジジイが好きかと言われれば嫌いですけど(笑)
でも、そう思うんですよね。
そもそも論になりますけど、ナンパって成功率の低いものじゃないか、と思うんですよ。
仮にですけど、ナンパの成功率が10人に声かけて1人と仲良くなれる、という確率だとしましょう。
で、記事の中で「好きな作家の作品を見てるときにされたくないことだ」だの、「警備員さんに声をかけましょう」みたいなことを言ってる人は、9人の方の人・・・つまりナンパについていかない方の人でしょう。
そりゃ、ナンパについていかない方の人の方が多いんだし、そーゆー人の声を集めたらこーゆーことになるじゃろな、と思うんですよね~。
大体が、「好きな作家の・・・」だの、「警備員さんに・・・」だの言ってる人はナンパをされないか、されてもうるせーって話になるか、どっちかでしょ。
それは、本人がかわいいとかかわいくないとかは関係なくね。ブスのひがみが、なんて言いたいんじゃないですよ、念のため!!
ナンパという行為そのものが、そもそも10人に1人を探し当てる行為であり、
ヘタなやり方をすれば10人に1人が30人に1人、100人に1人の確率になってしまうところを、
こうすれば10人に1人、5人に1人くらいまで確率を上げられますよ、って手法を紹介してるのがこの記事でしょ。
であればそもそも10人中9人にはこの記事関係なくない?と、思うんですけども。
この記事が炎上するということは、
「お、こういうふうにすればナンパの成功率が上がるのか!」
と、思う人よりも、
「うわぁ、ナンパしたらこんなに叩かれるの、こえぇ!」
ってなる人の方が多いのは容易に想像がつく。
それが、草食化が進むわな、と思った理由です(笑)
別にウンチク聞いて喜んで、イチボをつんつんされて喜ぶ女とだったら成立する話なんだから、当事者同士で成立してるんだったらどうでもいいじゃん、そんなもん、と、思うわけです、俺なんかは。
何を一生懸命炎上させることがあるんだろ?
そりゃ、雑誌の方も改善されないし、この記事の通りに行動しようってジジイも改善はしないわな。ターゲットじゃない人が騒いでるだけなんだもん(笑)
で。
何か問題があるとすれば、この記事の内容が問題というよりも、バカなジジイがこの記事のマネをして引き際を間違えて嫌がってる女性のイチボをつんつんしたり、興味ないウンチクを延々語り続けることでしょう。
問題の本質はバカなジジイがこの雑誌で紹介されてる手法が万人に通用するとか、
俺はモテる!とかって勘違いして、嫌がる女性にムリヤリナンパを仕掛けることだと思うんです。
だから何か雑誌の記事の方に改善をするとすれば、
無理に誘うと嫌がられるのでスマートに引こう、とか、
女性がこういうサインを出していたら拒否のサインなので無理押しはやめようとか、
なんかそういうノウハウも同時に載せておく、とかかなぁと。
なんというか、この雑誌の方もジジイのことを信用しすぎ、という気がする。
女性が嫌がったり、ナンパしても芽が無いな、と思ったら紳士的にスマートに引けるジジイばかりじゃないのよ。
というか、紳士的ではないジジイのが多くて、そーゆー下品なジジイに迷惑してる人が多い、ってのが炎上の理由の1つだと思うよ!
どうなんだろう、例えば紳士の国であるイギリス人とかなら、女性が嫌がる素振りを見せたらスマートに引けるんでしょうかね?
そういった紳士の文化という下地のない日本人が、
バブル期とかに得た経済力を背景に、
無理矢理女をナンパしようとしたら、
それはさぞ下品な光景だろうなぁ~、とは思いますな(笑)
なんというか、雑誌の方も、そーゆー下品なナンパの方法だけでなく、紳士的な、上品なナンパの方法、及び芽がない時の引き方を解説してみたらどうだろう、とはちょっと思います。
ま、下品なナンパについての需要はあって、その需要があるところに届けば雑誌としては成功なんだから、どうでもいいんだろうけど(笑)
ナンパ自体が成功率の低いものなんだから、
「ナンパについていかない人」の声を集めたら、そりゃ炎上みたくなるよね。
とはいえこーゆーナンパをする人が好きな女がくっついてく分には別にいいだろうし、わざわざ炎上させる意味はよく分かんない。
こんな炎上してたら、草食になるのもしょうがない気はするなぁ。
っつってもナンパの内容は下品だし、
ナンパの引き際が分からない下品なジジイに迷惑してる人が多いのも事実。
もう少し上品な、読者に紳士としての教育をするような記事があれば、
炎上とかしないで支持を集めるんじゃないかな?
まぁ、下品なジジイには関係ないんだろうけど(笑)
と、思った、という話です。
はーぁ、寝よ。
知るかボケと言うのはいいけどあまりにもいろんな前提が抜けてると思う [ニュース読んでみて]
5月10日の幻冬舎plus、「奴隷力はいらない サーからフォーへ!続・女もたけなわその6」という記事です。
記事を無理にまとめるとこんな感じ。
・「恋の奴隷」という歌に出てくるような男性優位の価値観は、昭和の価値観かと思っていた
・ところが、最近でも女性の奴隷力をつけていくのを指南するようなネットコラムが多い
・奴隷力を磨いても奴隷としての人生が待っているだけで、女の人生ではない
・奴隷力を磨くのではなく、知るかボケと突っぱねる力を上げていこう。そうすることが下の世代のためにもなる
・・・はぁ。
す、ご、い、な~。
多分こーゆー人たちが、今の日本の履き違えた個人主義を作り上げたんでしょうね。
と、思ってしまったなぁ。
あの、記事内に出てくるような、例えば彼女と愛車を比べるような男を擁護する気は全然ありません。
ただ、そういった男に対するカウンターが記事内にでてくるような車の中であえてスナックを食う、ということになると、それは違うんじゃねぇのと思う。
それって対抗手段として同レベルというか、お互いに余裕がない状態での泥仕合というか、なんだか、ねぇ。
もっとこう、ユーモアとウィットに富んだ、男はぐうの音も出ないけど、キズつけることもない、みたいな返しはできないものか。
女にだけそれを求めるわけではないけれど、レベルの低い男に同レベルの返しをして、奴隷根性からの解放、というのはあまりにもなのでは、と思います。
むかーしに何かで読んだ、
日本の男はレディファーストができない、という日本人女に対し、
日本人女はレディとしての振るまいができてないからね、とどっかの国の人に言われた、
という話がありました。
これは女の話ですが、男にしたって、
日本の女は男を立てない、という男に対して、
じゃぁお前は立てられるほど価値のある男なのか、
というふうに置き換えたっていいわけですけど。
レディとしての気品を持った女であったり、
男としての風格や余裕を持った男であれば、
こんな車を大事にする男の車の中でスナックボリボリ食ってやれ、みたいなくだらねー話にはならないと思うんですよね(笑)
そーゆーくだらねー対抗策を考えるより、自分を高める方が建設的なんでないかなぁと思うんですけどね。
そうすれば、そもそもそーゆーくだらねー男、あるいは女がよってくることはなくなると思うんですけど(笑)
で。
記事内にアメリカ女優、メイ・ウエストの言葉が引用されていました。
「良い子は天国にいける。悪女はどこにでもいける」
と、いうものですが、
俺はこれちょっと言葉が足りないと思うんですよね。
俺なりに言葉を追加したのが、以下です。
「良い子は天国にいける。悪女はどこにでもいける。
ただし、どこへ行くにも一人だが。
一人にならないのは、ものすごい美人か、ものすごい金持ちのみ。
自分がどちらでもないという自覚があるのなら、
せめておとなしく天国を目指すか、
一人でいる覚悟を決めるべきだ」
メイ・ウエストはよく知りませんけど、女優さんだし、美人でしょう。
この記事の筆者も、まぁ美人かどうかは知りませんが、それなりにお金持ってるでしょう。
記事内に出てきたSB力(知るかボケ力)に憧れるのもいいけど、
名言の出所が女優とか、この記事の筆者はそれなりに金持ってるとか、
そーゆーことを考えに入れずに、
普通の人がSB力を磨いても、孤独になるだけだよ、
まぁ、その姿は下の世代の反面教師になるだろうから、
ある意味下の世代のためにもなるのかも知れんけど(笑)
と、思った、という話です。
ちなみに俺は、おとなしく天国を目指すしかないですけどね(笑)
天国に行けたら万々歳じゃねーの、と思うんだけどなぁ。
はーぁ、寝よ。
マスコミやメディアに視聴者や読者の目線なんぞいらんだろ [ニュース読んでみて]
4月27日のJ-castニュース、「自民・二階氏がメディア批判 反論したキャスター、スルーした番組」という記事です。
記事を無理にまとめるとこんな感じ。
・自民党の二階幹事長が、「一行悪いところがあるとすぐ首をとれ、という」とメディアを批判
・NEWS23では、星浩キャスターが、「メディアが視聴者目線でニュースを伝え、それを見た視聴者が怒っている、ということを気付くべき」と反論
・報道ステーション、ユアタイムは映像を流したのみ、NEWS ZEROは発言自体を報じず
・とくダネ!では、小倉智昭キャスターが「たった一行でも言ってはいけないことがあるのでは」「政治家も一言拾って不信任だ!とかやってるけどね」とかみついた
ふーん。
えーと、まぁ、どっちもどっちというか。
しょうもない話だな、というか。
俺がこの記事で一番重要だな、と思ったのは、星浩キャスターの、
「僕らマスコミ、メディアは視聴者や読者の目線で事実を伝えて、それを分かってもらおうとしている。その報道を今回国民の皆さんが見て、本気で怒っている。その怒りを二階さんも気づくべきだと思う」
という発言で。
どこを俺が重要と思い、どこをツッコミ所と考えたかというと、
マスコミ、メディアに、「視聴者や読者の目線」なんかいらねぇよ、と思うのですが、どうでしょう。
・・・いらねぇってことはないか、ただ少なくとも取材の段階ではそんなもんいらないと思うんですよね。
この発言に、日本のマスコミ、メディアのレベルの低さというか、視聴者や読者を煽って金をかすめ取ろうということしか考えてないんだな、ということがよく出ているというか。
つまり、マスコミに必要なのは「視聴者や読者の目線」ではなく、「報道人としてのプロの目線」だと思うんです。
「視聴者や読者の目線」が必要だとすれば、
「報道人としてのプロの目線」で取材したことをそのままニュースにしても、
「視聴者や読者の目線」からすると分かりにくいかもしれないから、
「伝えるプロ」として、分かりやすく噛み砕いてニュースないしは記事にする、ってことでしょう。
要は「報道人としてのプロの目線」で取材した後で、伝える段になって初めて「視聴者や読者の目線」が出てくるもんだと思うんですよね。
それが「視聴者や読者の目線で取材している」とかいう言葉が出てくること自体に、疑問を感じるというか。
それはつまり、一言発言拾って煽って煽って、視聴者や読者がワーワー騒ぐかどうか、喰いつくかどうか、という観点だけで取材している、ってことなんじゃないかな。
ちなみに政治家も一言発言拾って不信任だーとかやってるけどね、という発言に関しては、
皮肉にも何にもなってなく、単にマスコミと騒いでる政治家のレベルが同じくらい低い、ということを露呈しているだけだと思います(笑)
政治家が発言拾って辞任だー、ってやってるのも、「政治のプロ」としての発言ではなく、国民を煽って煽って、世論を操作して次の選挙で勝とう、とかそーゆー戦術でしょ。
レベル的にはどっこいどっこいがいいとこだと思いますけどね。
俺は今村氏の発言を全部ちゃんと見たわけではないので、
その発言の是非はなんとも分からないけれども、
この記事を見る限りで俺が思ったのは、
マスコミ・メディアが「視聴者・読者の目線」で取材してるから一言拾って首を取る、とかそーゆーことが起こるんじゃねぇの、と。
一言拾って不信任だー、辞任だー、と騒いでる政治家も、レベル的には一緒じゃねぇの、と。
必要なのは「視聴者・読者の目線」「一般国民の目線」ではなく、
マスコミ・メディアは「報道のプロの目線」、
政治家は「政治のプロの目線」、
じゃないのかよ、と。
というか、頼むから「視聴者・読者」あるいは「一般国民」の目線でなく、プロとしての目線で仕事をしてください、
たっけぇ給料もらってんだろ?
と、思った、という話です。
はーぁ、寝よ。
見た目問題ってむしろ勇気もらったとか言ってる人らにあると思うんだけど [ニュース読んでみて]
4月20日のwithnews、「『見た目問題』ネットで反響、本人の思いは…『そういう反応は覚悟』」という記事です。
記事を無理にまとめるとこんな感じ。
・トリーチャーコリンズ症候群という疾患を持って生まれた石田さんの、半生を振り返った記事に対する反応と、石田さんの考えをまとめた記事
・石田さんの前向きな姿に、「尊敬する」「自分の悩みがちっぽけだと思った」「勇気をもらった」といった声が集まった
・「写真に驚いた」「街であったら見てしまう」という反応に加え、一部では中傷の声も
・石田さんは大学で障害に関する教育の研究をしており、「僕だからこそ、子どもたちのためにできることがある」
うーん。
えーと、まず前提として、この石田さんがこうして取材に応じたことは俺は素晴らしいことだと思います。
記事の写真を見てもらえば、トリーチャーコリンズ症候群にかかった人がどういった顔になるかが分かります。
正直に言って、俺はこの記事を読んだうえでも、街中で会ったらうわっ、てなっちゃうと思います。それを差別だと言われてしまうとそうなのかも知れないけど、多分、そうなる。
この石田さんと友達になったりして、何回も顔つき合わせたら違うと思いますけどね。いい悪いを別にしたとしても、うわっ、となるのは俺自身の自然な反応として、なっちゃうと思う。
もちろん石田さんが悪いわけでは全然ないのだけど、どうしても初めて見たときには驚いてしまう人が多いであろう顔の人が、こうしてメディアに出るということはすごいことだと思います。
同じ病気の人に勇気を与えるかもしれないし、トーチャーコリンズ症候群への世間の理解が深まるかもしれない。とても意義のあることだと思っております。
で。
中傷する人がいるってのは問題外としても、勇気をもらったとか、素晴らしい人だ、みたいな評価もちょっと違うのではないかな~、と思います。
石田さんがメディアに出た、というのは素晴らしいことだし意義のあることだと思うけど、石田さんの半生を見て勇気をもらったとか、素晴らしい人だ、というのは違和感がある、ということです。
記事の中では、見たら驚いてしまうかも、という意見と、中傷する人がいた、ということを同列に並べてるかんじでしたが、
ベクトルとして中傷に近いのは、勇気をもらった、とか言ってる方が近いんじゃないかと思うわけです。
記事の中で石田さんも言ってますが、石田さんはトーチャーコリンズ症候群を抱えてる以外は、普通の人。偉大な業績を残したとか、そーゆーワケではない。
普通の人の普通の半生を見て、勇気をもらっただの、尊敬するだの、中傷するだのというのは、そもそも相手を対等に見てないと思うんです。
もちろん、俺には想像できない悩みとかあると思いますし、俺が同じ境遇になったときに石田さんのように前向きになれるかは分からない。
ただ、逆に石田さんが俺と同じ境遇になったときに、俺と同じように前向きになれるかは分かんない、とも言えますよね。俺にだってそれなりに悩みはありますし。
俺の悩みより、トーチャーコリンズ症候群を抱えてる悩みの方が、前向きになるためのハードルは高いだろうけど、でも前向きに生きるって人らしく生きるための最初の一歩なわけで。
病気を抱えてるからって中傷するなんてーのはもちろん下の下だけども、逆に病気抱えてるのに前向きに生きてるから素晴らしいね、なんてーのもそれはそれでどうかと思う、んです。
念のためですけど、ケッ、この石田って野郎、珍しい病気持ってるからって大したことねーのにチヤホヤされやがって、なんて言いたいワケじゃないですよ。
石田さんがメディアにでることは、トーチャーコリンズ症候群を世間が認知するって意味で意義があると思うし、
かと言って石田さんにはわざわざ晒し者になってトーチャーコリンズ症候群を周知する義務なんかないわけだから、それはすごいことをしてるなぁ、と思います。
それに対する世間の反応として、普通の人である石田さんの半生を見て、尊敬しますだの言うのは違うんじゃないか、という話。
自己弁護するわけでは無いですが、顔を見て驚いてしまうのはある程度仕方ないのではないかと思います。
もちろん驚かれて傷ついたりする可能性もありますから、驚かないなら驚かない方がいい。それは分かる。
ただ、顔を見て驚いたからと言って、トーチャーコリンズ症候群を持ってる人を差別してるかというと、それは必ずしもイコールとは限らない。
石田さんの友達で、最初顔見たときはびっくりしたけど、話したら良いやつだったから友達になった、って人もいると思うんだよな。
そーゆー意味では、もちろん顔を見て驚かないにこしたことはないものの、顔を見ちゃうとか驚いちゃうというのは差別とかの問題の本質ではないんじゃないかと思うわけです。
この記事を読んで、トーチャーコリンズ症候群の人を見て驚かなくなったとしても、別の病気の人を見て驚いたり、ケガした人を見て驚いたりする可能性はあるでしょう。そんなこと言い出したらキリがねぇと思うんだよな。
俺なんか、街中で身長高くてデカイ人見ただけでビックリしますからね。うわ、デカイ!なんつって。いや、声には出しませんけど。
トーチャーコリンズ症候群であったりの、見た目が他多数の人とかけ離れてしまうタイプの病気、あるいはケガで見た目が変わってしまった人をみて、
驚いたり、奇異の目を向けたり、そういったことが無いに越したことはない。
ただ、見た瞬間の驚きなんかは、ある程度生物の反応としてしょうがないんじゃなかろうか。見た目が原因で友達付き合いができない、いじめる、とかでない限り、差別問題として扱うのはちょっと違う気がする。
むしろ、見た目が原因で中傷するようなバカはもちろんのこと、
石田さんのような普通の人の半生を見て、尊敬するとか感動したとかいうやつの方が、
病気があるのに、普通に生きられるなんてスゴイ、みたいな、病気を持っていること自体を一段下に見ているような気がして、
中傷しているバカと同様、こっちのがよっぽど差別的なんじゃなかろうか、
と、思った、という話です。
はーぁ、寝よ。
男を捕食するような女が出てきたとしても俺みたいなんは捕食されない [ニュース読んでみて]
4月4日のダイヤモンドオンライン、「エリート男喰い日記『暇な女子大生』がバカ受けする訳」という記事です。
記事を無理にまとめるとこんな感じ。
・出会い系サイトで出会った男性と毎日のようにデートやセッ〇スをし、その様子をツイッターに投稿する「暇な女子大生」というアカウントがある
・本来なら炎上してもおかしくないような内容だが、フォロワーは14万人に迫り、エピゴーネン(追従者)も出てきている
・今までの社会では、セッ〇スにおいては男性が女性を「喰う」「ヤリ捨てる」という男性優位の構造だったが、「暇な女子大生」の場合捕食者は女性であり、そこが新しい
・ある意味で「暇な女子大生」の活動は権力闘争であり、今はまだ日本社会に生まれた小さな歪みに過ぎないが、もしかすると時代の転換点になるかもしれない
・・・・・・ふーん。
まぁ、内容にはいろいろ感想あるでしょう。そんな大げさなもんじゃない、しょうもないツイートに大騒ぎすんなとか、なんつー下品なツイートだ、この「暇な女子大生」つーのはバカかとか、いいぞもっとやれ、とか。
俺としては、ツイートの文章とか、これを権力闘争と位置付けること自体には別に興味ないんですが、まぁ、この記事を読んでの絶望の深さといったら(笑)
つまり、女性の力が増し、男性を捕食するような女性が出てきたときに、まずターゲットになるのが「高学歴」男性である、ということ。この、何のステータスもない、モテない男の居場所のなさ、ね(笑)
まぁ、この「暇な女子大生」の性癖(設定?)として高学歴男性が好き、というのもあるでしょう。権力闘争だとすれば力のある(高学歴な)男性を次々喰っていく女子大生、という構図にしたからここまでウケた、という面もあるのかなぁ。
男性側で考えれば、例えばモデルやら女優やらを抱いたとかね、まぁ高学歴とかセレブな女性、とかでもいいんだけど、そういうステータスに惹かれて抱いたり喰ったりする男もいるわけですから、「暇な女子大生」が高学歴男性を次々に喰う、というのもまぁそんなかんじなんでしょう。
ただこう、感覚的に、この先こういう捕食する側の女子が増えてきたとしても、結局は高学歴とか高収入とかの、力のある男の奪い合いになるだけで、底辺が広がっていくわけではないだろうなぁ、と思うわけです。
あ、なんもしないでモテたい、なんて言いたいわけじゃないですよ、理想はそれですけど(笑)捕食者側の女性が増えたとしても、モテない男にチャンスが増える、とかではなくただただ格差が広がっていくのだろうなぁ、という話。
なんかで見ましたけど、見た目がいい女性と悪い女性では生涯年収に差が出るくらい格差があるらしい、と。でも実は一番冷遇されているのは見た目の悪い女性よりも見た目の悪い男性である、と。そんな現実があるそうです。
見た目がいい=モテる、とは限らないだろうけど、まぁ結局のところ見た目が悪く、学歴もなく、モテもしないような男に社会は冷たいんだろうな、と。
社会が変化し、女性も変化し、男性を喰うような女性が出てきたとしても、見た目が悪く、学歴もなく、モテもしないような男は、結局のところ何の価値もないのだなぁ、と。
様々な生き方が認められると言われてますよ。例えば結婚しない選択とか、恋愛しなくてもいいじゃないとか、休日返上で働くなんて古いとかね、いろいろ勝手なこと言いますけど。見た目がいいとか、高学歴とか、女にモテるとか、その辺の旧時代の価値を何がしか持ってないと、結局社会からはじかれるんじゃないか、と。いい加減なことばっか言いやがって。
この記事を見て、社会が変わるのかもしれないと思っても、変わったところで少なくとも今のままの俺が入り込む隙間なんぞ1mmもねーじゃねーか、と。
それで言ったら、せめて大金でも掴まないことにはマジで社会に入っていけないなぁ、と思うわけです、俺なんかは。まともな人生なんか歩めないよ。それでいいっつーんならそれでいいんでしょうけど、結構肩肘張って生きなきゃいけない生き方のような気も、するなぁ。
多様な価値観を認めるなんて、大嘘!結局学歴なり、金なり、モテるなりで力を得ないことには、少なくともこの社会の中で何の価値もない人間として生きるしかないんだ!!そうじゃなきゃ、もう野生児として自然の中で生きてくしかねーんだろうな!!!
・・・・・・なんだろう、今日はずいぶん、暗いな(笑)
はーぁ、寝よ。
ちょっとやんちゃなお父さんと人情警官のやり取りがニュースになるんだね [ニュース読んでみて]
2月16日のJ-CASTニュース、「警察が5歳児を補導、何をしでかしたのか」という記事です。
記事を無理にまとめると、こんなかんじ。
・ポケットバイクで公道を走るのは危険だとして、山梨県警が5歳児を補導した
・ポケバイでは行動を走ることはできず、付近の住民からの通報で警察が一緒にいた父親に事情を聞き、口頭で注意した
・ネット上では、「子どもがかわいそう」「補導はやりすぎでは」といった声が
・警察は、「補導は注意と同じと考えている、児相に通報もしない」とコメント
うーん。いや、うーん。
いや、父親が悪くないとは言いませんけどね。
そんな新聞記事にしたり、ネット上で大騒ぎするほどの問題か?俺が見た時点(2月17日午前9:00)で、ヤフーニュースの国内で2位なんですけど。そんなになるほどの問題か?これ。
記事の中には未就学児が補導されるケースは珍しいって書いてあったから、まぁ珍しいという意味でニュースになることはあるかもしれませんけど。そんな、子どもがかわいそうすぎるとか、ルールは守りましょうとか、そんなギャースカピースカ騒ぐほどのことじゃないでしょう、これ。
これが例えば、公道っつって交通量が多くて車がビュンビュン走ってる国道を、父親がそばで見守ることもせず、子どもが一人でフラフラポケットバイクで走ってた、とかならね、父親が逮捕されてもしょうがないと思うし、子どもがかわいそうだ、って批判がどんどん集まるのはそれはそうだと思うんです。
でも、このニュースを見る限りでは・・・まぁ、補導されたときの詳しい状況が分からないので、あんまり想像でなんか言うことは避けたいんですけど・・・つまり、ポケットバイクで走っていた子どもと父親が一緒にいた、人けのないところを選んで練習していた、警察も父親に口頭注意で済ませた、子どもを補導したとはいえ警察としては注意と同じと考えている、ということを考えた時に。
息子をレーサーにしたくって、
ポケットバイクでその辺ちょろちょろ走るのはあんまりいいことじゃないとは知りつつも、
人けのない、安全な場所を選び、
自分の目の届く範囲で、安全な範囲で息子に練習させ、
そこをたまたま目撃され、通報され、
現場に来た警官も、父親が一緒で、安全にも気ぃ使ってるのは分かったけど、
一応ポケットバイクは公道を走れないものだから、今後気をつけてね、と注意した、
ってくらいの話でしょ、多分。
分かんないけど、記事の中では子どもはポケットバイクの扱いに慣れていた、って書いてありましたから、初めてそこでポケットバイクの練習をしたんじゃないでしょう。
少なくとも子どもがポケットバイクの扱いに慣れるくらいの期間、特に通報されたとか、事故起こしたとか、そーゆーことがないわけだから、公道でポケットバイクに乗っていたことは悪いことだけど、それなりに安全に気を使ってもいたんだろう、と思うわけ。警察も、そこまで悪質じゃないと判断したから、注意で済ませたんだろうしね。
そーれーをーさぁ、やれ子どもがかわいそうだの、ルールを守れだの、警察は何やってんだだの、よってたかって大騒ぎするってのは、正直どーかしてると思いますけどね。警察が注意して、それで済んだ話でしょう、これ。ヒマなのかな?
記事の最後の方にある、ポケットバイクはチューニングすれば時速100kmは出る、って表記も、コレ悪意を感じるよな~・・・今回補導された子どもが100km出してたわけじゃないでしょ、恐らく。100km出してたらそう書くだろうからね。レースの話でしょ、100km出すって。5歳児が出るレースでそーゆーチューニングをしてもいいルールなのか、も分かんないしね。でもこれを見て、そんな危険なものに子どもを乗せて、公道を走らせるなんて!と考えて騒ぐ人が出るだろうし、それが狙いなんだろうなぁ。
父親が悪くないとは言わないけど、
状況を見る限りではお父さんは子どもの安全を考えたうえで、ポケットバイクの練習をさせてたんでしょう。
警察としちゃ通報されたし、安全に気ぃ使ってはいるものの、何にもしないわけにはいかないから注意をした、んだと思うんです。
で、その注意でもう済んだ話でしょう。
たったそんだけの話を、
新聞記事にしたり、ネットニュースで流したり、
やれ親がダメすぎるだの子どもがかわいそうだの、
ギャーギャーギャーギャー騒いでる日本人って、
病んでるんだか、ヒマなんだか・・・
と、思った、という話です。
はーぁ、寝よ。