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バッシングが起こらない社会ってのも多分ロクなもんじゃない [ニュース読んでみて]

7月2日のyahoo個人、「バニラエアだけじゃない。AKB、AV強要、セクハラ。物言う人をバッシングする風潮で私たちが失うもの」という記事です。

内容を無理にまとめるとこんな感じ。

・最近ではバニラエアの問題があるが、不正なことを正そうとし、権利を主張する人がバッシングされる、ということが広がっている
・例を挙げると、塩村議員へのセクハラ野次、AKBの恋愛禁止ルール、AVの出演強要問題に対する自己責任論等
・今は当たり前になっていることでも、数十年前の人が意義を唱えて勝ち取ってきたことも多い
・「物言う人」へバッシングして若い芽を摘むのではなく、声を上げる人を応援して支えあう社会にしていくことが大切


ふーん。


俺が思ったのは、社会ってそういうものじゃない?と。

変わったことを言えば、いい悪いは別にしてバッシングされるのが世の中じゃない?と、思うんですけど。

バッシングが起こらない、常に建設的な議論が巻き起こる社会って、それはそれでどうなんだろうなぁ?とは、思うんですけど。ちょっとコストがかかり過ぎるというか。

バッシングの根本に流れていることが、「決まりを守る」「迷惑をかけない」ことを教え込まれたからだ、という指摘も、まぁ正しいとは思う。

まぁ、女性=弱者という考えにより過ぎてるような気はしますけど、大筋で間違ってるとは思わない。

ただ、国ごととか、文化によって程度の差はあれど「決まりを守る」「迷惑をかけない」という意識でいる人がたくさんいるのが社会ってもんだし、

そうでないと社会が立ち行かなくなるじゃぁないか、と思うんですよね。

えーと、記事に出てくる事例の、声を上げている人たち・・・例えばバニラエア問題の当事者であったり、AKBの恋愛禁止であったりとか・・・が、正しいのか、正しくないのかということは俺には判断つきません。

判断つかないなりに言わせていただきますと、正しいとすれば既存の間違った社会システムに風穴開ける勇気あるチャレンジャーなわけですが、

正しくないとすれば単なるクレーマーなわけです。

提案されたことに対して必ず建設的な議論が発生する社会って、

クレーマーの言うことに関しても議論をしなきゃいけないってことで、

それはちょっとコストというか、手間がかかり過ぎて、いろんなことが立ちいかなくなるんではないかい?と、思うんですよね~。

そんななか、バッシングが巻き起こるというのは、

ま、最小限のコストでクレーマーをはじく社会的なシステムなのではないかな、と思うわけです。

もちろんはじかれる中に単なるクレーマーでなく、既存の停滞したシステムに風穴を開ける勇者が紛れていることもあるわけですから、

100%すんばらしいシステムではないわけですが、

まぁ、そのシステムでまぁまぁそれなりにやってってるのが今の社会なわけで。

そこを何とかしようとしてもしょうがないんじゃないかな~と思うんです。

要は、この記事の筆者が記事に出てくるような人たちを応援したいと思うのなら、

バッシングを無くそうとするよりも、社会システムに風穴あけようと奮闘する人々を応援する記事を一生懸命書いた方がいくらか建設的なんじゃないかと思うんですよね。まぁ、それはそれで書いてらっしゃるみたいだけど。

それではバッシングはなくならないし、声を上げにくい社会のままだ、というのはそれはそうなんですけど、

バッシングがある中で声を上げ、社会を変えていく人は偉大だし、

バッシングが全くなくなった社会が素晴らしい社会かというと、

クレーマーの意見までしっかりくみ取って議論しなきゃいけない社会がいい社会か、というとあんまりそうは思わない、わけです。


で。


そう考えると、現代日本って割とクレーマーの意見が通りやすい社会、ではありますよね(笑)

例えばテレビCMに対して何人かがクレーム入れただけで放映が中止になる、とかさぁ。

炎上騒ぎで芸能人が謝罪したり企業の偉い人が謝罪したりってあるわけですが、アレも実際に騒いでるのは数人とかだったりするみたいですよね。

そういうことがあると、そんなことでクレーム入れて、とか、クレーマーに負けて放映中止するなんて、なんてバッシングが起こったりするわけですが、

分かんないですよ、本当にそのテレビCMに根深い問題があって、既存の社会の価値観に縛られた凡人が誰も気づいてない問題点に気付き、いち早く声を上げた勇気あるチャレンジャーかもしれないじゃないですか、クレーマーじゃなく。

・・・プッ。

・・・あ、すみません、自分で言ってて笑っちゃった(笑)

だから、インターネットが発達し、個人で発信できるツールがいろいろ増えている中で、

ある個人ないし少数派の人間が声をあげ、実際に社会に影響を与える・・・それは例えばCMの放映が中止になる、とかね・・・ということが起こりやすい社会になっている、ということは言えると思うんです。

そういう意味では、この記事の筆者が言う、勇気ある個人が声をあげやすく、あげた声が通りやすい社会は、ある部分では達成されている、とも言える。

じゃ、その結果どうなった?ってことなんですよ。

規制とか自粛が増え、テレビがつまんなくなったとか、息苦しい社会になったとか、いろんなところで言われてるわけじゃないですか。

例えばテレビ番組を作ったとして、不快な思いをする人がゼロにはならないわけだし、

かといって企業としちゃクレーマーといちいちやり合うなんつーのは完全にムダなコストなわけだから、

そりゃ当たり障りの無いもんが増えていくに決まってる。結果、テレビ番組がつまんなくなる、ってのも、それはそうだとおもうんだよな。

あれあれ、声をあげやすくなり、議論が起こりやすくなっても、あんまりいい結果は生まないみたいだぞ?と、思うわけです(笑)

もちろん正しい意見に対してバッシングは起こらないに越したことは無いわけですけど、かといってクレーマーの意見をいちいちくみ取っていこうというのもちょっと違う。

だからまぁ、異なる意見にバッシングが起こる社会と、少数派の意見でも議論が起こりやすくて通りやすい社会と、どっちがいいか悪いか・・・

まぁ、どっちもどっちといえばそうなんだけど・・・

どっちかと言えば、異なる意見にバッシングが起こる社会の方が健全かなぁ、と思うわけです、俺は。

あの、かかるコストが、小さいでしょ。異なる意見をクレーマーも含めていちいち拾い上げて議論するより、異なる意見をとりあえずはじいちゃう、方が。

どっちもロクなもんじゃないのなら、コストが小さい方がまだマシなんじゃないかと思うんですけど、どうでしょう。

もちろん異なる意見を絶対に受け入れるな、という話ではないですよ。


社会の常識と異なる意見に関して、声をあげるのは大変だし、声をあげた人はえらい。

でも異なる意見にバッシングをするな、ってのはちょっと違うんじゃねーか。

バッシングは起こるもんとして、どうしても社会の常識と戦うのならバッシングが起こるのも織り込んで戦うしかないんじゃないかなぁ。

バッシングは無いに越したことはないものの、

異なる意見にバッシングが起こる社会の方が、異なる意見・・・クレーマーも含めて・・・を全部拾い上げてイチイチ議論する社会よりかはなんぼかマシだと思いますので。

と、思った、という話です。

ちなみに個人的な意見ですが、
バニラエアの件について。

バニラエアが障害者に優しくない航空会社だったのはそうなのかも知れませんが、

あのバニラエアをイヤらしく、狙い撃ちしてるかんじの、

あのやり口はいけすかねーな、と、思いました。

ホント、余談(笑)

はーぁ、寝よ。



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