SSブログ

最近イラストを描いてないので、成長したちいを描いてみました。 [ウチのコたちの、日常]

一応ですね、このブログは4コマを描くブログとして立ち上げまして。

でも最近4コマもイラストも描いてないので久しぶりに描いてみました。

 

ちいが、成長したらどうなるかな、というのを描いてみました。

 

あの、最近イラストを描いてないんだからキャラクターがぞろぞろ出てきてもわけわからん、という人もいるだろうし、

成長したちいは本チャンの4コマには出てこないんだから、

最近読んでくださってる人からしたら、なんかもう、ホントに訳の分からんイラストです(笑)

 

よければさかのぼって、他の4コマも読んでみてください(笑)

 

念のため、通常4コマで出てくるちいのイラストも載せときます。

キャラクター紹介の方も見てみてくださいな(^^)/

↓こちら、キャラクター紹介ページでございます(^^)/


https://yurinti.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306192087-1
nice!(0)  コメント(0) 

「日本人」をやめて、「推し」というくくりにしたらどうだろう、と大坂なおみ選手のニュースを見て思う [ぼやき]

あの、特定のニュースを見たからどう、というわけではないんですけどね。

 

最近その、大坂なおみ選手のニュースが多いじゃないですか。

 

すごいことだと思いますよ、その、日本人初の全米オープン優勝、グランドスラムシングルス優勝。

その戦績のすごさを疑う余地は全くないんですけどね。

 

あの、俺が違和感を感じるのは、「日本人初」のところです。

 

とか何とかいうと、なんだ、大坂なおみ選手を日本人と認めないというのか、父親が日本人じゃないからか、差別か!なんて思われる方もいるかもしれませんが。

 

そーゆーことじゃないんです。

なんつーの、記録としてね、日本人初、というのはいいんです。

 

あの、この先ね、ご両親共に日本人で、日本で育って、グランドスラムに優勝する選手が出てくるかもしれないじゃないですか。

それでも、日本人初の優勝者は大坂なおみ選手である。それは、そうでしょう、当たり前じゃん。と、思うわけです。

 

俺が違和感を感じるのは、

なんつーの、大坂なおみ選手は日本が育てたわけじゃないじゃない、ってこと。

 

例えばですけどね、日本でものすごくテニスが盛んで、毎日ゴールデンタイムにテニスが放送されてて、大坂選手についても子どもの頃からメディア、国民両方が注目していて、ずーっと才能のある大坂選手を追いかけて、なんなら大坂なおみという天才テニス少女を国がバックアップしてて、グランドスラムで日本人が優勝したことない中で今回優勝した、ということなら、日本人初グランドスラム優勝、と大々的に報道されるのも分かるんです。

 

ただその、ごめんなさい、テニスファンの人はご存じだったのかもしれませんが、俺自体は大坂選手を知ったのは最近ですし、

こんだけ大々的に報道されるようになったのも最近じゃん、と思うわけ。

 

ということは、大坂なおみ選手という素晴らしい選手が、

つい最近達成したグランドスラム優勝という偉大な業績に、

大坂なおみ選手が日本人だから、という理由で日本のメディアが乗っかっただけじゃね?と。

その乗っかり方として、「日本人初」という冠をつけてるだけの話じゃね?と、思うんですよね~。

 

日本人初、日本人すばらしい、日本人マジ優秀、みたいな報道をしたいのなら、大坂なおみ選手のお父さんが日本人ではない、とかの話は一切関係なく、

日本としてずっと応援してきている選手でなければ、そういう報道をしちゃいけないんじゃないか、と思うわけ。

 

そうでないのなら、海外で素晴らしい戦績を収めた選手が、たまたま日本人だったということに乗っかっただけじゃんか、と思うんですよ。

 

 

で。

 

 

そーゆーバカみたいな報道を無くすためには、

「日本人」というくくりでスポーツ選手を称えるのではなく、

アイドルファンみたく「推し」というくくりでスポーツ報道をするようにしたらどうだろう、と思うんです。

 

つまり、今回の大坂なおみ選手の話で言えば、

 

今回〇〇テレビの「推し」である大坂なおみ選手がグランドスラムで優勝しました、とか。

〇〇新聞の「推し」である大坂なおみ選手が、日本人として初めて全米オープンで優勝しました、とか。

 

そういう報道の仕方をするようにすれば、今時ほら、過去の報道やら記事を調べることなんて簡単なんだから、

 

〇〇テレビ、大坂なおみ選手を「推し」って言ってるけど過去にほとんど報道無いぞ、「推し」って言ってるのはウソだぞ、にわかだぞ!とか、

〇〇新聞、昔から大坂なおみ選手を追いかけてるな、これはかなりの「推し」方だな、〇〇新聞は「推し」って言ってもいいな、とかさ。

 

「日本人」かどうか、ではなく、「推し」というくくりで報道をすれば、大坂なおみ選手をずっとちゃんと推してきたメディアは評価されるし、そうでないメディアはにわかとしての評価しか得られなくて、ちゃんとしたスポーツメディアが育つんじゃないか、なんてなことを思ったり、します。

 

 

偉大な戦績を残したスポーツ選手が、たまたま日本人だったからといって、全てのメディアが無条件で乗っかっていい、みたいなことってどうなんだろう、と思う。

 

 

日本人初、みたいなことは記録としてはもちろん素晴らしいこととは思うものの、

 

 

日本人初だからって、全てのメディアが無条件に乗っかっていい、全ての日本人がお祭り騒ぎになってもいい、みたいなことってどうなんだろう。

 

 

ちゃんとしたスポーツメディアを育てようとおもったら、

 

 

スポーツ選手が日本人かどうかで報道するのは禁止して、

 

 

「推し」かどうかで報道するようにするのはどうだろうか。

 

 

それは、今回の大坂なおみ選手のお父さんが日本人ではない、みたいなことは一切関係なく、

 

 

ちゃんと推してたかどうか。推してたならお祭り騒ぎしてもいいし、推してなかったならそれなりの報道しかしない、でも称えるべきところはしっかり称える、というのは、

 

 

それは偉大な戦績を残したアスリートに対す礼儀じゃない?

 

 

と、思った、という話です。

 

 

はーぁ、寝よ。


nice!(0)  コメント(3) 

暴力がわりいのは当然なんだけど、ただ単に暴力と少ない国と比べてもしょうがなくね?とも、思う。 [ニュース読んでみて]

2018年9月11日のITmedia ビジネスオンライン、「日本人が『ある程度の暴力は必要』と考える、根本的な原因」という記事です。

内容を無理にまとめるとこんな感じ。

・スルガ銀行や体操協会等、最近「暴力指導」が次々に明るみに出ている。
・ある調査では、教育にある程度の暴力が必要、という日本人は57%にも上る(体罰が犯罪となるスウェーデンでは10%)
・日本人が教育に暴力を容認するようになるきっかけとなったのは、1885年に文部大臣・森有礼が始めた教育改革で、「教育現場の軍隊化」を進めたとされる。
・暴力指導とは日本人にとって、理性や合理的思考を超越した、もはや信仰のような存在で、「暴力はダメよ」という社会になっても、ひっそりと一部の熱心の「信者」が隠れキリシタンのように守られていき、こっそりと暴力指導が続いていくのだろう。


ふーん。


あの、記事はとても面白かったです。

暴力指導が始まるきっかけとなったことが、そこから来てるんだなぁ、分かんないけど、多分そうなんだろうなぁ、なんて。

で、俺がこういう記事を見て思うことは、

結局、暴力指導の効果のほどはどうなの?そこをちゃんと比較検証しないとあんま意味なくない?

ってことなんですよ。

誤解してほしくないのは、暴力肯定派ではございません、ワタクシ。

ただ、暴力肯定派をどうにかしようとしたら、比較検証しないと意味ないんじゃない?と、思うんです。

一応記事の中では、日本ではある程度暴力容認するのが54%、スウェーデンが10%、とか、そんな比較はありましたけど、
暴力容認派からしたら、そんなもん文化が違うんだからしょうがないだろう、ってだけの話だと思うんですよ。

例えばですけど、スポーツの話で言えば、
〇〇オリンピックで、暴力指導を行っている日本は体操でメダルが〇個しか取れなかったけど、暴力ではない〇〇という指導法を取り入れている〇〇という国は、なんと〇個もメダルを取っているのです!

とか。

暴力指導がまかり通っている日本は、学力テストで世界第〇位だったけど、世界第一位の〇〇という国は、こんな指導法で世界第一位を取っているんです!

とかさ。

そういう比較がいるんじゃないか、と思うわけです。

スウェーデンがどうなのか知りませんけど、仮にスウェーデンが日本よりもスポーツも弱い、学力も低い、経済的にも貧しい、という国だとすれば、仮にそうだとすればですよ、

じゃぁ、暴力指導の方が強い国を作れるんじゃないか、俺の指導は間違ってなかった、
とか考える暴力教師やら上司やらが出てきても仕方ないんじゃないか、と思う。

まぁ、人の幸せはスポーツとか学力とか経済だけじゃ測れない、とかややこしいことを言う人が出るかもしれませんが、それは置いておいて。

暴力指導を否定するなら、そうではないこういうスバラシイ指導方法があるよ、という対案があった方がいいんじゃないかな、と思うんですね。


実際に、暴力容認派がぐうの音も出ないほどの、暴力指導と対を成すような何かスバラシイ指導の方法があるとして、

実際にいろんな成績を比較するとこんな違いがでるんだよ、という話になれば、

まぁ、それでも頑なに暴力をふるい続けるバカはいなくはならないだろうけど、

暴力をふるわなくてもこうすれば成績が伸びる、という話がちゃんと広まれば、

暴力をふるうヤツもやりづらくなってだんだん暴力が減っていくんでないの?

その指導法がちゃんと定着した時に、

スウェーデンみたく体罰を法律で禁止すればいいんじゃないかなぁ。

今、体罰でしか指導できないような未熟な指導者は、

体罰止めれ、とだけ言ってもどうしていいか分かんないような気がするけど。

と、おもった、という話です。


はーぁ、寝よ。
 


nice!(0)  コメント(0) 

感動をありがとう、なんて話が蔓延したら、マスコミにバカにされてると考えて間違いないと思う [ニュース読んでみて]

2018年8月28日のITmedia ビジネスオンライン、「マスコミの『感動をありがとう!』が、実はとってもヤバい理由」
という記事です。

内容を無理にまとめるとこんな感じ。

・24時間テレビ、甲子園の金足農業高校、行方不明の2歳児を発見した78歳の尾畠春夫さんの生き様等々、今年の夏は「感動の夏」といえるが、このトレンドはかなりヤバいと感じる
・「感動できれば全てよし」という話の流れになり、「退屈だけど重要な話」を考えなくなる
・事実、24時間テレビが放送され続けても日本での障碍者の待遇は良くなっていないし、甲子園が開催され続けても球児の待遇は改善されず、体を壊す球児が後を絶たない
・1932年に敵陣の鉄条網を爆破するため、点火した破壊筒を持って突撃・自爆した3人の陸軍兵士、「爆弾三勇士」事件の際も、マスコミが煽って日本中で「感動をありがとう」の大合唱が起こった。「感動至上主義」は、そのような狂気に走る可能性を秘めている。


ははー。


あの、記事はとても面白いと思いました。

日本のマスコミの嫌~なところをうまいことえぐってるなぁ、と。面白かった。

俺の方でも、この記事読んで、マスコミが感動を煽ることについて、思ったことを書いてみたいと思います。


あの、そもそもの話なんですけど。

「感動」にフォーカスした物語って、ものすごく幼稚だとおもうんですよ。

ハッキリ言っちゃえば、「感動をありがとう」なんつって感動、感動を押してくるなんてーのは、

我々のことをバカにしている、バカ扱いしている、と考えて間違いないかと。


感動にフォーカスした物語ってつまり、「童話」だと思うんです。


例えば、シンデレラの物語は、

意地悪な継母や義理の姉にいじめられていたシンデレラが、

魔法使いの力を借りて王子様に見初められ、

結婚して幸せに暮らしました、めでたしめでたし。

という物語ですよね。


ただ、裏をちょっと考えれば、


何か知らんけどシンデレラの方も相当どんくさいからいじめられてたんじゃねーの?とか、

なんで魔法使いはシンデレラばっかひいきすんの、顔か?結局顔なのか??とか、

結婚して幸せってねぇ、王子と結婚なんて幸せなだけじゃなくていろんなことあったと思うよ、シンデレラなんか城内の人間からしたら成り上がり者なわけだしさ、とか、


まぁ、ツッコミどころはいくらでもあるわけです。


でも、そーゆー余計な要素を全部排除して、かわいそうな女の子が王子様と結婚して幸せになりました、という感動物語でまとめられている。
ただ、シンデレラはそれでいい。それが許されるのは、童話だからです。


子どもがそれを見て感動する、あぁ、私もシンデレラみたいになりたい、と思う、それはいいんですよ。

ただ、大人になってシンデレラの物語に心から感動してたら、それは心がキレイというよりも、コイツちょっとアホなんじゃないの?という話じゃないですか。


で。


この記事で書かれているマスコミが提供してくる情報って、簡単に感動物語にしている、本当は裏にいろんな現実があるはずなのに「童話」にしてしまっている、感じがします。


重い障碍に悩まされているけど、

一生懸命努力して、

何かスバラシイことを成し遂げましたとさ、めでたしめでたし。


県外から強い選手を引き抜くことができない公立校だけど、

一人のスーパーエースをみんなで支え、

力を合わせて甲子園の決勝に行きましたとさ、めでたしめでたし。


・・・このストーリーで感動しちゃうのは、童話を読んで感動しちゃうのと何ら変わんないと思うんですけど、どうなんでしょう。


いや、まぁ、分かりますよ。

その、現実が複雑で、ややこしいから、たまにはシンプルな物語を頭空っぽにして見たい、みたいなことは。

俺もその、スーパーヒーローが悪人をバッタバッタとやっつける、みたいな映画とか見るの好きですしね。


ただ、童話・物語ならともかく、障碍者の人生も、高校球児の人生も、現実なわけです。
現実がね、そんな、童話のようにキレイごとだけで構成されてるわけないじゃないですか。

24時間テレビ見て感動した、甲子園見て感動した、それは別に構わないと思います。

ただ、たまには頭空っぽにして感動したくて感動した、というならともかく、

テレビでやっていることが全てで、それが丸ごと現実だと考えて、それを見てなんてスバラシイ!なんて言って感動しているのだとしたら、

その裏にある現実を想像することすらできないのだとしたら、

それは童話を読んで感動してるようなもんで、なんだかずいぶん幼稚なんじゃないの、なんてなことを思います。


また、そーゆー童話を提供しておけば、視聴者は勝手に感動して、視聴率はうなぎ登りだぜ!なんてマスコミが考えているんだとしたら、

それはずいぶん人をバカにした話だなぁ、と、思うわけです。


でも、24時間テレビも甲子園も、何ら改善されることなく毎年開催・放送されるってことは、

まぁ、現実を童話化している、かなり人をバカにしたマスコミと、
童話をまるまる現実だと思って見ている、だいぶ頭が幼稚な大人、
という関係は、少なくともマスコミの商売が成立するくらいには存在しているってことなんだろうなぁ。


感動にフォーカスした物語って、いろんな都合の悪いことを排除した「童話」に近いものだと思う。


たまには童話みたいなシンプルな物語で感動したい、というのは分からなくもないけど、


障碍者の人生や、高校球児の人生といった、


「現実」を「童話」にしてしまうのはいかがなものかと。


とはいえ、「現実」を「童話」としてとらえて感動しちゃう幼稚な大人って、


少なくともマスコミの商売が成立しちゃうくらいの数は存在してるんだなぁ。


「童話」を提供してりゃぁ商売になるだろう、なんてマスコミが考えてるとしたら、


それはずいぶん人を、国民をバカにした話だと思うんだけどな。


バカにされてるのに気づかないのかな?幼稚だからなぁ。


と、思った、という話です。


はーぁ、寝よ。
 


nice!(0)  コメント(0) 

居合道とか、その他小規模な〇〇道を、団体の性質も違うだろうに他のスポーツと並べてどーすんの? [ニュース読んでみて]

2018年8月21日のダイヤモンド・オンライン、「剣道連盟で金銭授受問題、『段位』制度はもはや時代遅れ?」という記事です。

内容を無理にまとめるとこんな感じ。

・全日本剣道連盟(全剣連)が統括する剣道、居合道、杖道(じょうどう・木製の棒や木刀を使って形を見せる)の3部門の内、居合道で最高位の八段および、それにつく称号である「範士」の昇段審査で金銭の授受があったという不正が発覚した
・日本の伝統的な武道や芸事ではありがちな話で、茶道や華道に段位はないが、技能の等級を表わす「許状」があって、その取得のためには付け届けが必要だといわれる
・級から始まって、初段から段位を上げていく過程の審査は厳正に行われているはずで、金銭絡みの情実で合格が決まるのは許されることではない
・剣道、柔道の七段、八段は権威的存在で、そこが伝統的な芸事と共通している部分であり、現代の常識との齟齬が生まれる。伝統を守るだけでなく、改めるべきことは改める時期にきているのでは


う~ん・・・?


えーと、全剣連の性質がよく分からないので、あんまり強くは言えないんですけど、

少なくとも俺の印象としては、居合道の団体、あるいは茶道・華道といった芸事の団体と、
最近よく話題になるアマチュアボクシングだの、相撲連盟だのと一緒に並べるのはずいぶん違うんじゃないの?と思います。


俺なんかはハッキリ言っちゃえば、高い段位を取るために、多少付け届けをしようというのは、それはもうそうあってしかるべきなんじゃないの?くらいに思うんですね。

つまり、高段位の人って権威なわけで、その権威というのは居合道やら茶道とか華道そのものの権威であり、
その権威を保つことがその流派を守ることであり、それであれば習っている人が皆でそれを支える・・・つまり、お金をたくさん出すのは当たり前じゃない?と、思うんです。

大体が、7段、8段は権威的な存在、といってるわけだから、

趣味でやってる人は初段、頑張って2段とか取って喜んでりゃいいし、

競技者としてバリバリやりたい人は5段、6段とか取ってガンガンやりゃいいし、

それ以上を取りたいとなれば、言い方は悪いけどそれはもはや趣味の領域、取りたい人が取る領域であって、
そーゆー人は高段位者の権威付けに協力してさ、一杯お金を払えばいいんじゃないの?

なんてなことを思うわけです。

そーゆー意味では、付け届けを取ることがその流派とか、団体の運営方法であり、
高段位が取りたい人がいっぱいお金を払うから、その団体の権威が保たれ、結果団体が存続していく、そのための運営費なんじゃないの、付け届けは?とすら、思う。

付け届けがなくなったら、その団体はどうやって運営していったらいいの?なんか、他のお金を得る手段を提案できるわけ、この記事の筆者は?なんてなことも、思ったりします。


で。


俺がそういう風に思うのは、居合道であったり、華道、茶道みたいなものが、非常に小規模な団体であり、ほぼその団体の中だけで運営が完結するものだから、と思っているからです。

つまり、団体の運営はほぼ生徒からの月謝とかだけで賄われているのではないかな、と。
そーゆー場合、権威付けのためにプラスα、付け届けとかがあるというのは、それは、そーゆーもんなんじゃない?なんて。

付け届けの額で段位を乱発してたらその団体の信頼が下がる、みたいなことはまた別の話で。運営の方法として、そういう方法もあるんじゃないかなぁ、と思ったりするわけです。


で、ね。
に、対してアマチュアボクシングだの相撲だのはどうか。
って、話なんですよ。


アマチュアボクシングはいろいろ大会もあるだろうし、オリンピックという世界最大規模の大会がある。
相撲にしたって、大々的な興行があり、テレビでも放映されている。

これはつまり、生徒からの月謝(アマチュアボクシングだの、相撲だのに月謝があるのかは知りませんけど)みたいな、「団体内部から発生するお金」で団体が運営されているのではなく、

オリンピックだの、興行収入といった、「団体の外からのお金」で団体が運営できる、ということでしょう。

で、あれば、付け届けはよろしくないと思う。

例えばオリンピックにでるために団体にお金を払わないといけないとか、
番付を上げるために団体にお金を払わないといけないとか、

それは完全に団体の上層部が私腹を肥やすためのお金でしょ。
だって、外部からの収入で充分運営もできるし、権威付けもできるんだからさ。
団体内部からさらにお金を吸い上げる必要はないでしょうが。


要するに。


団体の内部でお金を回さないといけない小規模な団体と、
団体外部からのお金で団体運営もできるし、権威付けもできる団体と、

その2つを同列に扱っている時点で、この記事はずいぶん無理があるんじゃないの、と思うわけです。

もちろん、居合道の団体の規模とか、どういう運営なのかが分からないので、分かんないっちゃわかんないですし、

茶道とか華道の団体がすべて、団体運営のためだけに付け届けを要求している清廉な組織だとは思いません。

私腹を肥やすために、必要額以上の付け届けを要求する悪いやつもいるでしょう、そりゃ。

ただ、団体の運営方法がそもそも違うところを、
単純に並べてこいつら悪いことしてたんだぜ、とがなり立てるのは、
ずいぶん浅はかというか、悪意を感じるなぁ、と思うわけです。

じゃぁなに、この記者は、
居合道もオリンピック登録を目指したり、
居合道東京ドーム大会を開いて、テレビ中継されて観客が満員になることを目指すべき、
といいたいわけ?

間違いじゃないかもしれないけど、皆が皆それを目指せってのは、それはずいぶんムチャな話じゃねぇのか?とは、思いますねぇ。


金銭の授受だの、付け届けがどうのこうのって、まぁ、その部分だけ見れば悪いことだろうけど、


小規模な団体であればそういうことが必要なこともあるんじゃないの?


まぁ、その額が適切か、とか、なんかいろいろ問題はあると思うものの、


他のスポーツの団体と同列に扱うというのは、


それはもう、団体の運営方法から何から違うわけだから、いくら何でも無理があるんじゃないのかなぁ。


金銭で段位を決めるようなことをしてはいけないって、清廉潔白気取って気持ちがいいかもしれないけど、


それってあらゆる武道はオリンピック競技になるか、興行収入を得られるくらい有名になるべきだ、って言ってるようなもんで、それはあまりにも無茶なこと言ってると思うよ、


と、思った、という話です。


はーぁ、寝よ。
 


nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。